-15m32cm

 15m32cm。
 オレとあの人が初めて戦った時、あの人が扇子で測ったオレとの距離。それは、そのまま俺たちの距離を表していると思った。
 姿が見えるだけで、決して交わらないはずの距離。
 それなのにあの人と、対戦相手、敵、味方、同僚……として行動を共にしているうちに、たった紙切れ一枚分、30cmにも満たない距離にいることが、いつの間にか自然になった。

*****

 鉄の国での連合会議が終わった後は、クソ寒い屋上で、美味いとは言えない仕出しの弁当を食べながら、あの人と今日の会議を振り返るのが、定例の行事になっていた。
 吹きっさらしの屋上は、雪が積もっているわ風は吹いているわで、少なくとも長くいることに向いているとは思えない場所だったが、それでも、選ぶのには、人が来ないから、という理由だった。
 それなりに機密事項の高い話をしているから、人はいないに限る。
 同じ連合のメンバーにも話せないような里に関することに触れたりすることもあった。だから、余計に人目を避けるようになった。
 他のメンバーがオレたちのことを影で何と言っているかなんて、オレもあの人も知っていたけれど、会議の進行の効率を選ぶのであればこちらの方が早いとわかりきっていたから、特に気にもしない。そのことについて話したことはない。暗黙の了解というやつなんだろう。無駄な話をするのは好きではないし、都合が良かった。
 お互い、提案することに対して細かく突っ込みをいれて、わかりやすい、完璧な提案を作る。それを会議に出して、各里の意見を求める。そうやって会議を回したいから。
 今日も会議が終わると、机にのっかってる資料をさっとまとめて脇に抱える。あの人がオレのところへ来る前に、オレがあの人のところに行かなきゃいけない。
「今日も上でいいか?」
「あぁ」
 別に、この人がオレのところに来てもいい。いいんだが、それはどうも釈然としない。昼メシの誘いといえど、やっぱり男が女を誘うもんだろ、と思うから。それに、細い字で埋まった資料をこの人が片付けるのを待つ時間も嫌いじゃない。
「なぁ、アンタ、今日の弁当の中身聞いた?」
「聞いてないな。何が出るやら……」
 ハァーとため息をつきながら、藍色の手提げの中に筆箱や資料をいれていく。手提げは、細かい作業は苦手だが、古い服がもったいないから作ったと聞いた。その服が、中忍試験を担当していた頃に着ていた、あの着物だとも。
「ソースの匂いがすっから、ハンバーグとかじゃね?」
「それだけだと、ありがたいんがな」
 この人がこんなにも憂鬱そうなのは、ここ数回の弁当の中に必ずタコの酢の物が入ってるからだ。
 なかなか噛みきれなくて、イライラする。
 昔……まだ藍色の着物を来ていた頃のことだ。夕メシを食うのに入った木の葉の定食屋で、出された定食の中の小鉢に、タコの酢の物が入っていた時、そう言っていた。その時は「出してもらったものだから」と無理やり食べていたが、あまりに嫌そうに食べるものだから、いつの間にかオレがこの人の嫌いなものは食うようになっていた。
 タコとかイカとかいった食べ物が嫌いな理由を、はっきりと聞いたのはその時だ。でも、嫌いだったのはずっと前から知っていた。けれど、それがいつだったか思い出せない。
 会議室の出入り口で配られている弁当を受け取ると一度、暖かい談話室に足を伸ばす。そこできっちりと防寒用マントを着込みんで手袋をはめると、そのあたりにいる同じ会議のメンバーに
「オレたち、ちょっと別のとこで食うから」
とだけ伝える。用があるなら、後で聞くから、と。あの人の準備もできていることを確認すると、余計なことを聞かれたくなくて足早に、寒いであろう屋上に向かう。
 寒冷地である鉄の国の暖房設備は悪くない。談話室や食堂、それにオレたちがさっきまでいた会議室は常に快適な温度に保たれているし、暖房のかけすぎによる乾燥を防ぐために加湿器までたかれているほどだ。暖気は上にのぼるものだから、階段を上がっていくほどに室温は高くなるのだが、オレたちのお目当てはその向こうにある屋上だ。
 正直、寒いのは好きじゃない。
 だったら、どこか空いた部屋で適当に食えばいいんだろうけど、あいにく、ここは鉄の国の公舎で、どこかしこにも人はいるし、オレもあの人もここに詳しい訳じゃない。融通が効きそうな空いた部屋なんて知らない。だから、機密性のことを考えると、誰もいないと知っている屋上に上がったほうが早いってわけだ。
 しかし、弁当が食えなくなるほど固まってしまう屋上へと二人で赴くのも、バカらしいと思う。温かさと弁当を犠牲に潰すほどのことでもないと思う。だけど、そうやって工夫しなければ、お互いの時間が取れないのだから、仕方がないとも思う。
 屋上には、屋根も何もない。あるのは、冷えきったベンチだけだ。吹雪だったらもう目も当てられないことになるほどの惨状になるが、昼間のうちはまだ、マシだ。太陽が出てるから、急いで食べれば胃の中に、なんとか弁当をかきこむことはできる。
 屋上へのドアを開けると、一瞬、目を瞑ってしまうほど、珍しく太陽が顔を出していた。過去にここまで、日が照っていたことはない。午前中に積もっていた雪に光が乱反射してまぶしいが、目を開けていられないほどではない。
「どうする?」
 一応、後ろの人に声をかける。
「ここしかないだろう?」
 わかりきったことを聞くな、と答えられる。そういうと思ったぜ、と言ってオレが一歩屋上へ踏み出すと、ヒュウと吹いた風が頬を斬りつけていく。
 日の光で若干溶けている雪を踏みしめながら、ドアの近くに備えつけられているベンチへ向かう。あの人はオレの足跡をたどって歩いてくるから、できるだけあの人の歩幅に近いように歩く。
 ベンチに積もっている雪を二人分と資料分だけ払って座り込むと、あの人はオレが払った場所に座った。
「いつもすまない」
「いいって。お礼にこの前、手袋貰ったし」
 オレの手にはまっている、木の葉のベストのよく似た緑色の手袋を見せると
「それはお前が、先にこの手袋をくれたからだろ」
目の前の人も、手にはめている紅色の手袋を見せつけてきた。
 その手袋は前に鉄の国を二人で歩いている時に、寒がっていたから買ってやっただけだ。手が冷たくて話を聞いてませんでした、じゃ困るから。そしたら次の日に「いつも雪を払ってくれてるから」と買い返されてしまった。
「後で何か、暖かいものでもおごるよ」
 オレとの間に、手提げ袋を下敷きにして資料を取り出しながら、何がいい?と尋ねてくるが、こっちはそんなつもり毛頭ない。
「いいって。男が女におごられるなんて、ダサくてしょうがねー」
 膝の上においた弁当が冷えきってしまう前に蓋を開けると、メインのハンバーグよりも先にポテトサラダが目に入る。ゆでたまごが添えられていたから。しかも、口がぽそぽそする、固くゆでられたやつ。
 隣の人もそれに気づいたらしい。
「食堂で味噌汁でも飲むか?」
 勝ち誇ったような顔で言う。買ってやった手袋は、オレにくれた手袋と、かたゆで卵で相殺したとして、雪を払ってもらった分はまだだから、とりあえず味噌汁でもおごらせろってか?
「けんちん汁もなかったっけ?」
 一度、話を逸らして、おごらせないために思案しようとする。しかし、そんな手はこの人には通じない。
「わからない。ただ一つ言えるのは、私の服にポケットはついてないからな」
「マジかよ」
 じゃあもうゴリ押しで、財布の中に二人分のけんちん汁代つっこむしかないじゃねーか。
 思いついた手を封じられてため息をつくと、蓋の裏に張り付いていた使い捨ての箸を剥がして、袋の中から割り箸を出した。それから、弁当の中身をさっさと口にいれていく。底はまだほのかに温かみを残しているが、表面の方はもう冷え始めているから早く食べないと、昼メシを食いっぱぐれることになる。
 あの人もせっせと口に運び始めるが、片手には資料が握りしめられていて、熱心に読み返している。この場所では最初、仕事の話をするよりも先に、胃に詰めることを優先するほうが大事だと思うんだけどなぁ。
 ゆで卵を残して、弁当を食べきると
「シカマル」
 と名前を呼ばれる。それから来るのは、怒涛の質問だ。さっきの会議でオレが提案したことに関して、オレ自身がもう一度整理したこと、それからお互い考えていることを交換していると、向こうは弁当そっちのけで話に熱中している。弁当の中身が半分ぐらいしか減ってない。
 思えば、オレと目の前の人に広げられている資料の横幅分……15cmぐらいしか、距離がない。15m32cmから考えれば、-15m17cm。かなり距離が縮まっている。ここまで距離が近かった女なんて、母ちゃんか、いのぐらいだろうか。15cmなんて、どこかで肌の接触を起こしてしまうような距離だ。いのに押し付けられたマンガじゃドキン……なんて胸の高鳴りを示す擬音がつけられていたし。
 でも、実際はそんなことは全くない。オレから触ることもないし、向こうから手が伸びてくることもない。紙面か弁当か、それぐらいしかオレは触らない。触りたいとも思わない。
 会議中にで各里の忍に確認しておきたいこと、鉄の国にいるうちに資料室で見ておくべき資料、話してるうちに出てきた課題の解決策の糸口をどう発展させていくか……大体そんな感じで仕事の話ばかりだから、いのやサクラが言うようなロマンチックな時間じゃないし。それを言えば、ギャアギャア騒ぐ女子たちのの横でチョウジが
「二人はそれでいいんだよ」
と言っていたが、その言葉の意味はさっぱりわからない。知りたいとも思わない。
 けれど、この人といるのは悪くない時間だ、とオレは思っている。
 手の内を知り尽くしているあの人とオレとの間で、今さら気を使う必要もないし、互いの好きな色も嫌いな食べ物も嗜好も熟知しているから、大抵のことには困らない。それに、一番はこの、無駄なことの一切が省かれた会話。話していてただただ、楽。だから、近くなったこの距離に、心地よさを感じていた。
 話している途中で、あの人の弁当からタコの酢の物を盗むと、口に運ぶ。口の中で、タコをコリコリと噛みながら資料を指差すと、向こうも断りなくか茹で卵を拾っていく。それでいい。「もらうね」なんて言われてもめんどくせーだけだから。
「やっぱり、ここはもう少し話し合っておくべきだったな」
「しゃあねーよ。時間はいくらあっても足りねぇんだし」
「でも、あの進め方じゃ……」 
 資料から微妙に話がズレて、会議の愚痴を重ねかかったその時、あの人は、何でもないかのように、そう、まるで任務の結果を報告するかのように、もう一つのゆで卵を口にしながら言う。
「お前、わたしと結婚する気はないか?」
「は?」
 噛みきれないタコの咀嚼をやめて目の前にいる人を見る。しかし、会議の愚痴を言っている時のように平然とした顔をしていて、本当に『結婚』なんて言葉を出した本人だと思えない。
「言葉が足りなかったな。すまない。カンクロウや我愛羅と話していてな。木の葉と確固たる友好関係を築くにはどうしたものか、ってなって兄弟のうち誰かが木の葉の忍として結婚するのが一番わかりやすいだろうってなったから」
「で、オレ?アンタの政略結婚の相手に?」
 まだ噛みきれてはいないタコを無理やり飲み込むと、向こうは自分の仕出し弁当の米に手をつける。まだ資料から目を離さない。
 雑談か何かのつもりなのか?そんなわりと大事なことを?
「お前には、特別好きな人がいるとも聞いたことがないし、良いかと思ったんだがダメか?」
 一重の大きな目がちらりとオレを見るが、その瞳の中は凪いでいる。本当に、仕事の話をするかのように、ちょっとした雑談かのように、淡々と言っているが、その内容がおかしいことに気づいてるのだろうか。
 突然のことで頭が上手く回らない。っていうか、なんかこう、もっと、あんだろ?
「ちょっと待った。考えさせてくれ」
「いや、考える必要があるならいい。無理強いしたいわけでもないから」
 視線が下に向いて、資料の字面をまた追い始める。オレはあの人の頭の上で揺れている二つの毛束のを見ていることしかできない。表情が見えないから、どういう気持ちでいるのかさっぱりわからないが、それでも、無表情なんだろうなということは勘づける。
 この人と結婚?
 いやいや、そんなめんどくせーこと、オレはパスだ。こんなこえぇ女と結婚したら将来、父ちゃんみたいに尻にひかれてるのは目に見えてる。オレはどっちかっつうと、もっとおとなしい女がタイプだ。タイプっていうかそれが、平凡な人生を歩もうと思ったら最適解だし。彼女がいたことがないからはっきり言えねえけど。っつうか、結婚なんてめんどくせーこと自体、パスしたい。
 でも、とここで考え方を変える。
 オレが一人でこの先を歩んでいくと決めていくとするだろ?でも、この人はそうじゃない。木の葉か砂か知らねーが、どっかそれ相応の忍かなんかと結婚して、なんとなく子どもが産まれて、それで幸せになれんだろうけど、その結婚相手によっちゃ、もう、こうやって話すこともできなくなるわけか。こんなクソ寒い屋上で飯を食うことも。せっかく、居心地がよくなってきたのに?
 それは困る。
「で、ここのことなんだか……」
 変わらず、仕事の話を続けようとする目の前の人は、凍り始めた米に苦戦しながら言葉を続ける。箸の先端を、米が受け入れない。米をほぐすのを諦めて、弁当に箸を置くのを見届けてから、オレは言葉を遮った。
「なぁ、さっきの提案だけど、いいぜ」
「どの話だ?」
「結婚、するよ。アンタと」
 不確定要素にまみれた未来のことを考えるより、確定させてしまってそれから考えた方がいい。この人の未来を縛ることになるけれど、言い出したのはこの人だ。
 目の前の人の弁当の中で最後まで残っていたタコを一つ取り上げて、口の中に放り込む。こっちももう凍り始めている。シャリシャリと口の中で音がする。
「そうか。じゃあ、後で我愛羅に手紙を送っておくよ。で、話を続けてもいいか?」
「どうぞ」
 話を聞きながら、これからのことを考える。
 オレは誰に手紙を送ったらいいんだ?とりあえず、母ちゃんだろ?あと、ややこしい問題になるといけねーから六代目か?里に帰ったら絶対、うるせーだろうなぁ。いちいち説明しないといけないんだろ。あの人が言ってきたからOKしたんです、って。ん?ちょっと待て。女に言われたことを、男がそのまま飲み込むっておかしくねーか?
「やっぱ、ちょっと待った」
「何だ?」
 また話の腰を折られて、嫌そうな顔をする。冷気で赤くなった鼻に、皺をよせて。けれど、オレはそんなことを無視して、空になった弁当を脇に避けると、ベンチから立ち上がる。それから、わざわざあの人の前に跪くと、手をとった。手袋に包まれていてもわかるぐらい指先が冷えきっている。その手をきゅっと握ると、ピクンと手がはねた。オレが顔を上げれば自然とこの人と目があって、深緑の瞳にはオレが写っているのが見える。
 ……これであってんだっけ?
 頼りは、いのが押し付けてきたマンガだけだ。これから起こす行動を思い浮かべると、自然と心拍数が少しだけあがる。さっき話したところだから答えなんて、わかってるけれどそれでも、ドクドクと耳に響いてくる。
「何する気だ?」
「いいから、アンタは黙ってろ」
 すうと息を吸い込んで、吐くと白いものが飛び出す。オレ、こんなとこで何してんだろうな。そうは思いつつも、こればっかりは男のオレから言っておかなければならない。言うのも、今しかない。
 誘うのは、男から、が基本だ。
「砂のテマリさん、オレと結婚して下さい」
 案外、すんなりと出てきた。自分でも驚くほどに。もう何百回も練習したのかと思うほど、すらすらと。
 目の前の人は、一瞬ぎょっと目を見開いたがすぐに、普段はつり上げている目元を緩めて、おかしそうにふふっと笑うと
「いいよ」
短く返事をする。
 綺麗だ。
 この人に対して、初めてそんな思った。見た目とかそんなこと気にしたことなかったけれど、よく見たらこの人、綺麗な顔をしている。そういえば、真正面からこの人の顔をちゃんと見たことがない。いつも横にいるから気づかなかったけれど、この人、こんなに美人だったんだ。
 オレの手の中の指先がほんのりと温かみを取り戻す。その温かさが手を通じて胸にまで上がってくると、心臓が脈打つたびに、全身に温かい血を送っていく。
「ただ一個気になんだけど、オレ、多分一生こんな感じだけど、アンタは後悔しねーか?」
 ぎゅっと手を握れば、手袋越しにもかかわらず、あの人の指の細さが際立つ。あんなバカでかい扇子を振り回してるくせに、こんな細い指でいいのか。
「後悔しないと思ったから、お前だけに言ったんだよ」
 弱い力であの人は、手を握り返す。少しだけ頬が赤色で染まっているのは、寒いせいじゃないのは、オレでもわかる。アンタもそんな顔、することあるんだな。
「さっきも言ったとおり、砂は問題ない。あとは木の葉だ」
「木の葉も問題ない。過去に他里との結婚例もあるしな」
 綺麗に晴れていた空からちらちらと雪が降り始めるが、あの人の赤い頬に溶けて、消えていってしまう。
「……お前こそ、私でいいのか?こんなに急でよかったのか?」
 瞳の中のオレが歪む。不安、申し訳なさ、他になんだ?
「嫌なら、こんなとこで改めてプロポーズなんてしねーよ」
 あの人の大きな目の淵いっぱいに、涙がたまる。
「オレも、アンタがいいって思った。だから」
 涙は目尻からつうと音もなく涙が筋を作って、落ちていく。
「これから先も、アンタに隣に居て欲しい」
 マントの袖から伸びている、白い腕に顔を寄せて唇を触れさせようとすると、ふいにぐいと顔を持ち上げられて、皮膚よりもっと柔らかいものが当たった。
 何が起こったのかわからなかった。どういう状況なんだ。
 だけど、頬に触れる温かい水が、あの人の顔の一部だと教えてくれた。ゆっくりと離れていった顔の、口元から立ち上る色濃く白い息が見える。たまらなくなって、繋いでいる手を思い切りオレの方へと引いた。
 ベンチから落ちてきたあの人を抱きとめて、今度はオレの方からキスをする。10cm、5cmと縮まって、0cmになった時、カチンと歯がぶつかる。
「ふふっ」
 あの人が笑って、オレの胸を押すと、簡単に屋上に広がっている雪の上に倒れこんだ。オレの上に、あの人は覆いかぶさると、
「キスもまともにできないガキなのにね」
ちゅうと音をたてて、唇を吸い上げる。挟まった柔らかい感触が離れるのが、妙にもどかしい。
「アンタ、ずりぃよ」
「この程度でギブアップするのか?」
くっくっと喉をならしているこの人の顔は、まるでイタズラに成功した子どもみたいに無邪気で。
「まさか。今夜、そっち行くわ」
 いいだろ?
 そう言いながら、オレの体の上の人の腰に手を当てると、ぽっと顔が赤くなって、全身から温かみを感じる。
「手が早くないか?……私が寝る前に来いよ」
「最初にしてきたのは、そっちだろ」
 触れるだけの0cm。今度は歯は当たらなかった。

*****

 食堂に寄れる時間なんて結局なかった。
 早急な方がいいと二人で結論を出して、公舎の中にある簡易郵便局に手紙を書いて、出しに行ったところで、昼休みは終わってしまった。
 マントのおかげで服は無事だったが、頭は濡れてるわ、手がかじかんでいるわで、手紙の方は上手く書けたかわからない。だけど、母ちゃんと六代目には十分伝わるものが書けたと思う。問題があるとすれば、砂に送った方だろう。
 それから、何もなかったです、という顔をしながら会議室に戻る道すがら、変わらず会議の話をしていると、ふいにこの人の嫌いなものを知ってる理由を思い出した。
 あれは、オレが受験した時の中忍試験だったか。本戦に向けての修行がかったるくて、街をぶらぶらしていた時にたまたま、外で飯を食ってる砂の御一行様に出くわした。一瞬のことだったが、隣の人はタコをつまみ上げた時、少しだけ眉間に皺を寄せていた。それは、黙々と飯を食っている周りの連中も気づいていないほどの些細な表情の変化だった。でも、それが妙に印象深くて自然と、あぁ、あんなこえぇ女でも苦手なもんあるんだなぁ、ぐらいには覚えていたというわけだ。
 舎内の温かさに救われて、濡れた毛先は乾いてきたけれど、それでもまだ湿気が残っている。
「さすがに、内側はまだ濡れてるなぁ」
 抵抗なく、隣の人の毛束を触ると
「……やっぱり、後で何かおごるよ。私のせいだし」
 触られていることに気にもかけずに、また味噌汁の話を持ち出す。
「いいって。オレがおごるよ。あんなことになったのはオレのせいだし」
「私が出す!」
 ぷいとそっぽを向くと、オレの手から毛束が離れていく。とりあえず、夕飯を食いに行くことは決まったから、またその時にどちらが出すか出さないかで揉めたらいい。何食うかなぁ。この辺詳しくねぇし、適当に鍋でもつつきに行くか?
「で、会議の話の続きだが」
 手提げの中から、雪でしわしわになった資料を取り出すとまた、会議の話をし始める。
「アカデミーでの習熟度についてなんだがな」
「あー。それ多分、次の会議に皆出すんじゃねーかな。最新版。データの予測はできるから、そこから……」
 なんて話をしながら会議室のドアを開けると、部屋の中にはまだ黒ツチと長次郎が離れて座っていた。
 一緒に入ってきたオレたちを、黒ツチがニヤリと口角をあげる。
「ご夫婦は今日もラブラブってか?」
「うっせーな。会議すんぞ、会議。他のメンバーは?」
 適当な席に座って、他のメンバーの所在を聞くと黒ツチは
「進行役が準備にもう少し時間が欲しいからって、昼休みが15分伸びたんだよ」
ケラケラと笑いながら面子が揃っていない理由を言う。
 15分あったんなら、もう少しマシな手紙が書けたんじゃね?
 そう思いながら、面と向かって囃し立てくる黒ツチを適当にあしらっていると
「テマリさん、濡れてませんか?オレのでよければ、タオル使って下さい」
「あぁ、気を使わせてすまない」
 オレから離れた席で、あの人は長次郎からタオルを渡されているところだった。冷えたものばかり食ったせいか、胃のあたりがムカッとする。表情に出したつもりはない。けれど、にやにやして黒ツチは
「彼氏様は、自分の女に他の男のもんを使わせるのに抵抗ないのか?」
胃のムカツキを煽るようなことを言ってくる。
「は?そんなんじゃねーよ」
 あの人のやつと同じように、読みにくくなったに目を通すフリをする。さすがに集中している素振りを見せたら黒ツチも黙るかと思ったが、このくノ一は面倒くさいことにまだ話しかけてくる。
「じゃあお前ら、何でいつも別のとこで飯食ってたんだ?」
「落ち着いて会議の話をするためだよ」
 ペラリと資料をまくって、別のページも見ているフリをする。しかし偽も続ければ真になるようで、あの人が言っていたことを思い出しているうちに、頭の中でするすると提案が再構築されていく。されていっているはずなのに
「長次郎、これ洗って返すよ」
「いいですよ。そのままあげます。砂でも使って下さい」
「悪いな」
あの人の声を勝手に耳が拾う。こんなにあの人の声ってよく響いたか?いや、今までこんなことなかったはずだ。
 あと少しでまとまりそうな提案が、まとまりきらない。ひょっとして、意外とめんどくせーことになったんじゃないか?
 進行役が「時間が押してしまってすみません」と部屋に入ってきて、会議が始まるまでそればかり、考えていた。

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