一閃。
シカクの右側の視界が紅に染まったのは、敵方が下ろした一振りのクナイだった。肌を切られた痛みよりも、右目からの視覚情報を閉ざされたことにシカクは困惑する。
しかし迷っている暇はない。鋭利な切っ先がまた己の身を捉える前にシカクは地面を蹴り上げると、大振りな枝にひらりと着地した。そして、使えなくなった片目の代わりに、耳で瞬時に周囲音を確認し、次の枝へと飛び出した。
この大木に囲まれた森林は、シカクにとっても、交戦している敵にとっても、恰好の隠れ蓑であった。互いが、太枝の隙を縫うように動き回り、葉で膨らんだ梢に身を置く。
見えない相手に、影を使う秘伝忍術は使えない。このまま姿を隠しながら逃げるのが得策か、それともこれすらも敵の策の中なのか。
幹を踏む足の力に弱まりを感じたシカクは、人気がしないことを確認して、大木の幹に背を預ける。そして徒労感に苛まれながらも、額から流れ出す血を腕で拭い取った。血をまき散らしながらの逃避行は、相手に自分の位置を教えているも同然。しかし傷に当てられるようなものは、持っていない。
張りつめる緊張感の中、シカクは腰を落とすと辺りを両目で丹念に見回した。大木は未だ、敵を隠している。手負いの鹿は長く逃げれぬと踏まれている可能性もある。
部隊は分散させられ、いのいちやチョウザがどこにいるのかわからない。スリーマンセルを組むことができれば、追い忍の処理をすることはできるがーーー。
持っている忍具と照らし合わせ、シカクはこれからの算段を必死に立てていく。ここで倒れるわけにはいかない理由があるからだ。
クナイが五本、起爆札が三枚、それに……。
血が噴き出す感覚がし、必死に長袖を額に当てるが一向に血が止まる気配がない。また片目の視界を、奪われる。
その時
「「シカク!」」
もしもここにいたら、と想像していた二人が目の前に現れる。眉の太い男と、体格の良い男。けれどシカクはこの二人が、味方だとは思っていない。このために、三人で事前に決めていたことがあった。
「合言葉は?」
「「猪鹿蝶」」
「ちげーな」
三人で決めた合言葉など最初から『ない』
敵だと判断したシカクは素早く印を組むと、己の影を伸ばす。シカクにとって、見えている者は敵ではない。練習場の的と変わりのない、木偶の坊だ。シカクの影に捕らえられたいのいちとチョウザはボフンと煙に巻かれる。そして煙が去り、現れた二人は、素知らぬ二人。額に刻まれている印は、雲隠れの忍であった。
シカクは印を重ねる。
『影首縛りの術』
影が、足下からズズと這い上がっていく。大蛇のように敵の体に絡むと、全身を、そして最期に首を締め付ける。痛みと死への恐怖で歪む相手の顔を、シカクは冷ややかな目で見ていた。情はない。相手は必死に影に抗おうとするが、その抵抗も空しく、ついには意識を失くし、枝から落ちて行く。
目の前の敵は去った。しかし、これで襲撃が終いではない。後続が来る恐れもある。けれど、そのための手がシカクには打てぬ。片目で、乏しい忍具を使うには、厳しい状況だ。生き残るためには立ち上がり、他の敵が来る前にしかない。
シカクの足は枝に着いている。だが、それももう長くは持たないのは、自認していた。額から湧く血は止まるところを知らぬ。
ひどい吐き気と歪む視界の中、ポーチを弄ると油紙に包まれた丸薬を取り出した。応急キットを持たないシカクには、助かる術がこれしか思いつかなかった。後方に控えている支援部隊まで辿りつけば、こんな傷は治してもらえる。けれど足がそこまで持つかどうか。
それにできれば、飲みたくのないものである。ヨシノに謝ることがまた、増えてしまう。
意を決してシカクは丸薬を口の中に放り込むと、噛み砕き、苦味で顔を顰めた。奈良一族謹製の止血丸である。効果はきちんと出るであろう。
シカクがまだ生きていられることにほっと安心すると、足の力が緩み、そうして前へと倒れこんだ。
*****
こんな暗ぇのに、世界が動いてんのはわかんのかァ。
シカクは、ぐらんぐらんと縦横無尽に動く黒い世界の中で、そのようなことを思っていた。天地はどちらなのか、自分はどこに立っているのか。自分が何をしていたのかすら曖昧で、思い出せない。
兎にも角にも、動いてここがどういうところなのか、知りたかった。しかし、足には鉛がついているようで動きもしない。
疲れちまったなァ。
ふとそんなことが胸中を過った。動かせないのであれば、動かなければいい。考えたくないのであれば、考えなくてもいい。守るべきものはここには、ない。
シカクは呆然と立ちすくんだまま、惚けた顔で何も見えない闇の中を見つめていた。温かくも冷たくもないこの場所は、シカクを優しく包んでくれる。
このままがいい。このままが……。
シカクはその場に座り込むと、目を瞑った。音も聞こえない世界に囲い込まれ、全てを諦めようとしたその瞬間
「シカクお兄ちゃん!」
幼いヨシノが、自分を呼ぶ声が聞こえた。
なんだと思い、シカクが顔をあげて振り返るとそこには、ヨシノが泣きながら走り寄って来ていた。短い足を懸命に動かし、ぱたぱたと駈けている。
自分のところへ来たと思い、ギョッとしたが、どうやら違うようだった。彼女は自分に見向きもせずに、横を通り過ぎると、その先へ向かっているようだった。前にいたのは、下忍になっても、悪ガキがやめられない三人組だ。
「シカクお兄ちゃん、待って!」
三人組の真ん中で、箒頭をしている少年を呼び、止めようとするヨシノ。しかし、少年はヨシノに見向きもしない。隣にいた、二人の少年に何か声をかけて、地面を蹴ると姿を消してしまう。
追いつこうにも、まだアカデミーにも入ったばかりのヨシノに、そんな芸当は到底できない。少年たちが飛んだのがわかると、その場で更にわぁわぁと泣き出した。
シカクは、泣きながら自分を呼ぶ女の子を、そうやって置いていった過去があった。
ちょうど額当てを貰った頃だった。
いつまでたってもヨシノは、シカクを追いかけて遊ぼうとせがんでくる。けれど、シカクはそれに「うん」と首を振らなくなってしまった。
「わたしも、わたしもつれってって!」
ドテンと派手に地面に転ぶ音が聞こえても、それでもシカクは無視をした。さすがに転けたのを見て、いのいちが
「いいのか? ヨシノちゃんを放って行っても」
とシカクに囁く。けれど、シカクは
「いいんだよ。ヨシノにもそのうちわかる」
そう言って、ヨシノを過去に、シカクは置いていった。自分を呼ぶあのうら悲しげな悲痛な声を、ずっと蓋をして忘れようとしていた。
中忍ベストを着たシカクが、目の前のヨシノに近づこうとすると、ヨシノもゆっくりと消えて行く。そのあとに
「そうするしかなかったんだ」
シカクは誰に対してでもなく、自分に、言い聞かせた。
アカデミーでは、男と女は明確に区別をされた。男は体や術を磨き、女は教養を磨く。そうやって、それぞれが全く違う役割を持つ個体であると教えられた。だからどちらが優れているといった幼稚な話ではないことは頭で理解していた。頭では理解していても、それでも、思春期を迎えたばかりの自分には、女といることに気恥ずかしさを覚えた。
よくよく考えてみれば、その頃からであった。シカクがヨシノと道を違えたのは。
闇の中、シカクは幼いヨシノが居た跡を見ながら、拳を握る。ぐっと力を入れれば、爪が手のひらに食い込む。ヨシノが転んだ時、どれほど痛かったのだろう。膝を擦りむいてはいなかっただろうか。
大人になった今、後悔している。遅すぎる後悔は、ヨシノをどれほど傷つけてきたか、シカクに考えさせる。しかし救いでもあり後悔の一端を担っているのは、大きくなったヨシノが、シカクを変わらず受け入れてくれたことだった。
ふいにずきりと額が痛み、手を当てれば手のひらはぬらぬらとした赤い液体で染め上げられていた。
あぁ、そうだった、そういえば。
ここがどこだか知らぬが、木の葉隠れの里に。ヨシノのところに、帰らなければならない。またヨシノに謝っていない。ヨシノに謝らないといけないのだ。これまでのことをすべて。
置いて行ってしまったこと、話も碌に聞かずに特別上忍になるなとヨシノを否定しまったこと、ちゃんとヨシノ自身と向き合わなかったこと。
それら全てのシカクの過ちを、ヨシノが許してくれるかどうかわからない。謝罪自体が自己満足に終わってしまうかもしれない。謝れば、全てが終わってしまうかもしれない。
けれど、シカクにはヨシノとの間に流れる濁流を越えねばならなかった。汚れても、傷を負っても、もう一度、ちゃんと話をしたかった。
シカクは暗闇の中を駆け出して行く。この闇の終わりを探して。そうやって突き進んで行くと、次第に辺りが光を帯びてくる。その先にある薄らと見える先の光の中に飛び込んだ時
「テメーも生き残らねーといけねーんだぞ」
父の声が聞こえた気がした。
*****
「……カク兄さん!! シカク兄さん!!」
呼びかけに応えるようにシカクが目を開けようとするが、右目に違和感があった。何かに押さえつけられていて、開けることができない。ここがどこだがわからないが、治療はした貰えたのだろう。
シカクは仕方なく、薄らと左目を開けると、そこにはヨシノの顔を浮かんでいた。
「ヨシノ?」
ここは里なのかと思ったが、違う。薄暗いテントの中であった。後方から支援をしてくれている、医療忍者の。ヨシノがここに居るのは不思議なことではなかった。ここならば、中忍のヨシノが配属されてもおかしくない所だ。
数回、左目をパチパチと動かすと、明確に周りが見えてくる。
「気がついた。よかった……」
ほぅと安堵するヨシノの顔は、シカクの知らぬ顔だった。怒らせてばかりで、他の顔をちゃんと見てこなかったことが、一層、シカクの身に染みる。
「なぁ、ヨシノ」
思っていたよりも、自分の声は微かなものだった。上手く、声帯が震えてはくれない。けれど、ヨシノはその声を耳聡く拾い上げる。
「喋らないで。まだ傷が塞がってないの」
開ききらない左目の中でもヨシノの気丈な表情はしっかりと見てとれた。それは母が、自分への覚悟を話した時と同じ顔をしていた。引き締まった、女の顔。
女の誰しもが、そうやって何らかのもの常に覚悟をしているのだろうか?
「私、報告に行くからちゃんと寝ててよね」
「いや、待ってくれ」
立ち去ろうとするヨシノの手を、シカクは震える手で掴んだ。
難しい話ではない。シカクが隣に選んだ人を、変えただけの話だ。過去にヨシノを置いていった時、別の人を当たり前としたのはシカクからだ。
「ダメよ、ちゃんと寝て。今回は見てるわ」
見下げるヨシノの目つきは真剣そのものだ。幼馴染だからということではない、医療に携わる人間と患者としての目つきだ。
シカクが置いてきたはずの女の子は、今はこうして一人のくノ一として自分と肩を並べていた。後ろをついて回る女の子ではなくなっている。その中で、腑に落ちるものがあった。
「あのよォ……」
「何? どこか痛むの?」
「なぁ、ヨシノ。すまねぇ、もう置いていかねーよ」
「置いていく?」
「そう、置いてったろ」
複雑な表情を作ったヨシノにシカクは、ヨシノが自分との間であったことを、ちゃんと覚えていることに心が安らいだ。
最初から、ヨシノと自分との間に溝なんてなかったのだ。正体不明の濁流なんてつまらないものも。すべて、自分の思い込みであった。
続きを話そうとかさついた唇を動かそうとすると、ヨシノは何か異変に気づく。
「! シカク兄さん、少し静かにして」
ヨシノはシカクの手を振り払い、タオルを引っ掴むと、額の傷口にのせる。そして額をぎゅうと押しこんだ。シカクの額が、ズキズキと痛む。
暖かい手。ヨシノが、自分の知らぬところで苦労を重ねてきた手だ。親伝いに失敗話を聞くばかりで、実際のところは知らなかったが、頼りになる、良い忍である。
ヨシノの淹れた茶が飲みたい、そう思うと自分のこれまでの失態に詫びをいれようと思ったが、今は伝えたくなくなった。もっと先に、ヨシノに、言いたいことができてしまった。
「いてて……!! ちょっ、ヨシノ」
「待って! 止血した後に聞くから!」
ヨシノはさらに力をこめて傷口を圧迫する。ヨシノも必死だが、シカクとて今すぐに伝えなければならないことがある。
「今じゃなきゃいけねーんだよ!!」
「何よ!! この程度で死ぬような人でもないくせに!!」
「ちげーんだよ。オレが寝てる間に他の男に盗られるかもしんねーだろ?」
「何の話?!」
今出てくるべきではない、突然の単語に驚いたヨシノは、患部を押していた手を緩める。その手の上に、シカクは自らの手を重ねた。
もしも自分の名が石に残るようなことになっても、それでも今、ヨシノにこの言葉を伝えておきたかった。また、つまらない濁流がシカクの声がかき消してしまう前に。
シカクはすぅと息を吐くとゆっくりと口を動かした。
「ヨシノ、結婚してくれ」
ヨシノは動きを止めて、瞳孔の縁を水でぼやかしていく。シカクは、さらに言葉を続ける。
「オレ、ヨシノがいねーと生きてけねーわ。だから、結婚してくれ。約束もしよーぜ」
シカクがもう片方の手で、そっと小指を差し出すと、ヨシノは静かに涙を流しつつ、血のついたそれを絡めてくる。
幼い時と同じだ。「また明日」そう言って、小指を通して、今を未来に小さく繋げる。
「……生きて木の葉で会いましょう。その時に、返事をしてあげる」
微笑むヨシノに、シカクも目元を緩める。この笑顔がずっと、好きだった。幼い頃から、この笑顔が見るのが好きだったから、いのいちやチョウザも巻き込んで、一緒に遊んでいた。丸い顔を梅干しのように皺々にさせて笑っていた時と違い、今は唇を広げるだけだけれど、それはヨシノが大人の女性へ成長した証だろう。
シカクが、干上がった川を越えた先で見つけたのは、変わらぬ、ヨシノの笑顔であった。