馬鹿がひと川越えるまで4:「馬鹿が」

 どこの里も大戦で疲弊しきった頃、シカクの多忙ぶりは群を抜いていた。里にいれば上役たちと今後について議論を交わし、一度任務に出れば現場を任される。
 仲間が、生きるか死ぬか。
 己が編み出した作戦にすべて委ねられていることに、不安を抱く間もなかった。シカクが発した言葉が今日は何人を殺し、何人を死なせてしまったのか。
 慰霊碑に刻むための死亡者名簿に目を通すたびに、やりきれない気持ちになる。シカクが指揮を取っていなくとも、彼らに任務を与えるのはシカクの意見を聞いた、上役たちだ。直接的でなくとも、間接的にシカクが殺したも同然である。
 腹の底に溜まる鬱陶しいものは、風呂の湯気には溶けぬ。持て余したそれを、どのように扱えば良いのか、わからなくなってきていた。シカクが溜めているものは、写真に残る希代の兵法家にも、覚悟を決めている母にも、気心知れた仲間たちにも、明かすことはなかった。
 里に居ても、日常の中に溶け込めぬ日々はシカクを摩耗していく。戦場に身を置いて方が楽だと思うことも増えた。
 そして、忙しさを理由にシカクは現実から逃げた。
 喧嘩したままのヨシノと顔を合わせてしまう可能性から、家に居ればに結婚を勧める母と向き合うことから。
 最終的には、家に近づくことさえしなくなった。任務から解き放たれれば、次の任務まで夜の街で時間を潰す。そんな日々を過ごしていた。
 二日酔い以上に悪い気分を誤魔化すために重ねるように飲む酒。そこに、いつしか女も加わり、どことも知れぬ女の寝床で目を覚ますのも珍しくないことであった。
「シカクさん、起きて。シカクさん」
 しっとりとした女の声がシカクの、名を呼び、胴を揺する。シカクの体の中にまだ残っている酒が、朝を迎えたばかりの視界を揺らす。端に見えるのは、昨夜シカクが褒めた、濡れ烏のような長い髪だ。
「んん……朝か?」
「とっくに昼よ。今日はどうするの?」
「どうもこうも……そうだ、アンタと二度寝とかどーだ?」
「馬鹿な人。あれだけシたっていうのに?」
 女は、口先ではシカクの提案を馬鹿にする。しかし、すっかり紅の禿げた唇を、自らシカクのそれに重ねてくる。抱きたい男と、抱かれたい女。この布団の上にいるのはそれだけだ。
 触れるだけのものがねっとりとした舌の絡めあいに変わるまで、そう時間はかからない。女が「かっこいい」と褒めた右頬に残る傷を、その指先が痕をなぞったのをきっかけに、シカクは女を自分の方へと引き込む。そしてそのまま、仄かに赤らんでいる柔肌に口を付けた。
 居酒屋で知り合った、都合の良い女は、大層シカクを甘やかしてくれた。何の仕事をしているか明らかにしてくれなかったが、いつ訪ねても、家にいる。逃げたい時に逃げさせてくれて、好きなだけ抱かせてくれる女。けれど、シカクはこの女の淹れた茶を飲む気にはなれなかった。
 そのまま女と二度、三度と肌を重ねたシカクは、名残惜しそうに自分を見送る女の家を後にした。シカクもできれば、ここに留まりたいところなのだが、今日はいのいちやチョウザから、呼ばれている。
 シカクが、忍の三禁と呼ばれているものに手を出していることを咎める人は、誰もいなかった。誰しもが仲間の死を忘れるために酒を飲み、温かみのある肌を求め合う。それが当たり前のことであったからだ。しかしながら、親友たちは違った。
 シカクが二人に呼ばれた先は、猪鹿蝶の三人組が酒が飲めるようになってからずっと贔屓にしている居酒屋であった。里の隅にある、焼き鳥が名物の店だ。 
 店内は、炭焼きか煙草か、正体は知らぬが白煙で満たされ、煙の匂いが染み付き鼻にツンとくる。壁もメニュー表も、油で滑り気を帯びているような居酒屋。その片隅にある狭いテーブル席で、シカクは猪口を片手に、いのいちとチョウザと対面していた。
 机上に残された煙草の焼け跡を肘で押しつぶして、シカクが一気にアルコール臭の強い、猪口の中身を飲み干すと眼前のいのいちは、シカクの態度への怒りで震えだす。
「シカク、いい加減にしろ」
「何の話だ?」
 串に刺さっているプリッとした肉に、たっぷりと匂いのきついタレをつけてシカクは噛り付いた。お世辞にも綺麗とは言えないこの店は、炭の上で転がされた焼き鳥が美味い。締めに頼める、鶏モツ雑炊は、裏メニューだ。
 少なくとも、齢二十四の男たちが集まるような居酒屋ではない。彼らに、ここを教えた人がいる。
「シカク、もうよしなよ。綱手先生はそんな風にしろとはおっしゃらなかっただろ?」
 三忍と呼ばれる、伝説のくノ一。
 その人の名を出されて、シカクはピクンと眉を動かした。
 綱手は三人を直接、指導したわけではない。しかし三人で焼肉を頬張っていたところ、たまたま出くわし、その時に「この店は安くて、美味いぞ」と教えてもらったのだ。酒の飲み方も。
「……綱手様の言う通り、楽しく飲んでんだろーが。任務だって行ってる。作戦本部にもだ。ちゃんと、やってんだろ」
 シカクは、薄青の筆で木の葉のマークが描かれている徳利を持ち上げると猪口に注いでいく。
 やらなければやらないことはちゃんとやって、楽しく酒を飲め。
 綱手は三人にそれを教えた。そして、シカクはその通りに実行しているつもり、であったのだが、二人にはそうは見えなかったようで。
「でも……ねぇ、シカク。本当に楽しい?」
「……」
 チョウザは、心配そうな声でシカクに声をかける。ゆっくりとした、不器用な語り口。チョウザは体格に似合わずま心から優しい男である。自分のことも、真に心配しているのであろう。
 それは、チョウザの隣で貧乏揺すりを始めた長髪の男もだ。しかし、その男は「いのいち」とチョウザに名前を呼ばれ、ふぅーと一息をつけると淡々と、耳を赤くし始めたシカクに問う。
「なぁ、シカク。オレたちにはお前が苦しんでいるように見える。一体、何に苦しんでるんだ。オレたちに言えないことなのか?」
 苦しい、いのいちに言われて、シカクは「確かにそうだ」と思った。現実から逃げようと、酒を飲み、女のところに通っても、少しも気分は晴れない。シカクは激流に、流されていた。もがけばもがくほど、水を飲み込み、苦しくなっていく。しかし、水を飲み過ぎて、もはや何に苦しんでいるのかすら、シカクにもわからなくなっていた。
 猪口の底で煙草の跡を消し、静止したシカクに
「シカク、もしかして」
 何かに気づいたチョウザが慌てるが、チョウザがこう思ったのではないか、というのは彼が知る情報の中では一つしかない。
「オヤジのことは関係ねーよ」
 精一杯導いたであろう答えを、シカクは否定した。父の死で、気掛かりなのは母のことだけだったが、その母が前を向いているのであれば、シカクの出る幕はない。
「じゃあ、どうして」
「なんもねーって。なんも」
 ヒラヒラと手のひらを遊ばせ、シカクがさらに徳利から酒を出していると、いのいちがにわかに、聞きたくなかった名前を出した。
「ヨシノちゃんもか?」
「……あぁ」
 顔に出したつもりはなかった。けれど、いのいちには気づかれただろう。いのいちは、察しが良い。シカクの読み通り、いのいちは席からガタンと立ち上がっていた。内からくる、熱情を抑えられない方だ。
 いのいちは深呼吸をして息を吸い込むと、
「この、馬鹿が!!」
 そう、シカクに向かって吠えた。そして、力強い平手をシカクの右頬に的確に当てる。
 シカクは頭を揺さぶられる衝撃に、一瞬何が起こったのか認識できていなかった。叩かれたとわかったのは、椅子から転げ落ちた後だ。
「何しやがる!!」
 すばやく体を起こして、シカクがいのいちの胸倉を掴むと、いのいちもそうする。お互い、譲らない揺すり合いに、休止を挟もうとするチョウザの声は届かない。
「なーに、一丁前に不貞腐れてんだ!! お前、本当に『あの』奈良シカクか?!」
「『あの』ってなんだよ!!」
「ヨシノちゃんが憧れた、奈良シカクか? って聞いてんだよ!! オレは!!」
「んなこと知るかよ!! オレは、オレだ!!」
「ヨシノちゃんから聞いたぞ!! 喧嘩したってな!! それで腐ってんだろ?!」 
「だーかーらー!! ヨシノは関係ねーって!!」
「お前がムキになる時はだいたい、図星だ!! 認めろ!!」
「何をだよ?!」
「ヨシノちゃんが好きだって!!」
 シカクは、いのいちの言った『好き』という言葉に引っかかりを覚え、一瞬、服を掴む手を、緩めた。好きは好きだ。なにしろかわいい妹だ。しかし、いのいちの言っている意味は違うことは、さすがのシカクにもわかる。
 また手に力を入れた。今度は、より一層。
「ヨシノは!! ただの幼馴染だろーが!!」
「やっぱお前、馬鹿だろ!! ヨシノちゃんが、どんな顔してお前のこと見てたか知ってんのか?!」
「知らねーっての!! んな、わかりやすい女じゃねーだろ!!」
「わかりやすいわ!! 馬鹿!!」
「馬鹿馬鹿、そんな言うなってーの!!」
「馬ー鹿!! 馬ー鹿!! 馬鹿のしかは、シカクのしか!!」
「お前、それが言いたいだけだろ!!」
 唾の飛び交う距離でいのいちと言い合いを続けているシカクの肩を、突然、大きな手が優しく乗せられる。それはいのいちも同じだったようで、二人ともピタリと言い合いをやめると、ゆっくりと手の持ち主を見た。
「シカク、いのいち。ケンカするなら外で」
 チョウザだ。笑っているように見えるが、目の奥は笑っていない。二人の肩をむんずと掴む手に込められた力からも、穏やかな怒りを感じる。
「「はい」」
 チョウザのこれ以上の物言わせぬ無言の圧力に負け、二人は同時に着席する。机を跨いで胸ぐらをつかみ合ったため、机の上は嵐が過ぎ去った後のようになっていた。小皿は四方八方へと飛び散り、底が丸い徳利は転がって酒をまき散らし、せっかくの焼き鳥には酒がついてタレが落ちてしまっている。タレまみれの箸だって、机上にはない。
 シカクはいのいちと目線で合図を出すと、二人揃っておしぼりを手に机を拭き始める。そして、酒浸しになった、タレのとれた焼き鳥を音無く食べ進めていると、ずっと黙っていたチョウザがため息混じりに言う。
「でも、やらなければならないことって、なんなんだろうね。仕事なのかな、それとも一族の仕事なのかな。ボクにはよくわからないんだよね」
 それは、とシカクが返す前にいのいちが
「なんつーか、ふわっとしてるよな。やるべきこと、って状況によって変わるだろ? 仕事だと任務を率先してこなすことだし、家のことだと早く結婚することだし。でも、それの両立ってできないんだよな。あっちを立てば、こっちが立たずって感じでよォ」
 いのいちはがぶりと噛み付いて、白ネギを串から外すとむしゃむしゃと砕き、ごくりと飲み込む。そこにシカクは、自分の言葉を滑り込ませた。
「でも今は大戦中だろォ? 任務優先にならねーのか?」
「そうだけど、ボクたちも後のことを考えたら、お付き合いしてる子も大事にしないといけないよね。特に結婚を考えるなら」
「そうそう。オレたちもう、二十四だぜ。オヤジたちは子どもがいたってーの」
 そこから少し、シカクはいのいちやチョウザと、将来の話をした。わかったのは結局、誰しもが漠然とした不安を抱えていることだった。体の奥に溜まる得体の知れないものに、怯え、焦る。明日どうなるかわからない、今の状況だからこそ、だ。
 それはきっとヨシノも同じことだった。未来への焦燥感に煽られていた時に、脱するために与えられたきっかけが『特別上忍』だっただけにすぎない。
 未来への話ばかりではない。
 いのいちが杯を振りかざしながら「花屋の子にあまり構えないせいで破局寸前だ」と泣き、チョウザが「この前プロポーズをしたらOKしてもらえた」と笑う。今の、くだらない、日常の話。
 腹を抱えて笑ったシカクは、二人と楽しいひと時を過ごした。気づけば、酒を重ねて誤摩化していた気分が、一杯の酒で十分、晴らされていた。親友と飲む酒は、体の中に染み込み、都合の良い女よりも早く効く。
 シカクは、二人に先に帰ることを告げ、居酒屋を出ると、さっぱりした気分で、夜に冷やされた空気をたっぷりと吸い込んだ。
 腹の底の鬱陶しいものは未だに燻り続けている。けれど、それは誰もが抱えているものであるとわかった今、怖いものではなくなった。それにはまだしばらく、そこに居てもらわなければならない。少なくとも、この大戦が終わるまでは。自分が、自分であるとわかるために。
 シカクは軽い足取りで、数週間ぶりに家への真っ当な帰路を歩いた。帰宅をしない息子を、心配しているだろう。
「とりあえず、ヨシノには謝らねーとな」
 シカクが決意を呟いた、秋口の夜空で星が静かに瞬く。
 ヨシノに、頭ごなしに全てを否定したことを、兎にも角にも謝らなければならない。その後、ヨシノがどうしたいのか、聞かせてくれるのであれば、聞かせてほしい。完全に道を違えてしまう前に、最後に、幼馴染として、かわいい妹として、何かを手向けてやりたかった。
 肌寒い夜風が、シカクの紅くなっている右頬の跡を辿った。

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