馬鹿がひと川越えるまで3:シカクとヨシノ

「いででででで!!」
「これぐらい我慢しなさいよ!! 男でしょ!!」
 高いところで括った黒髪で天を衝くヨシノの言葉は乱暴であった。しかし、右頬への処置は素早く繊細に行われていく。
 畳で打ったのがまずかったのか、風呂に入ったのがまずかったのか、食事で大口を開けたのがまずかったのか。もしくは、どれも正解なのか。
 シカクの結婚について話していた母はその後、シカクの顔を見て顔を真っ青にすると「血」と呟き、椀を落とした。
 痛みがずっとあったせいで気づかなかったのだが母に言われ、風呂で湿った布に指先を当てると、ぬらぬらとした鉄臭い液体が付着した。
 あぁ、めんどうなことになったとシカクがぼんやりしていると、母はすぐに一軒隣に住むヨシノを呼びに家を飛び出していった。
 そして、今だ。
「……これでおしまい。寝る前に増血丸を飲んで、しばらく安静にして」
 全ての処置を終え、ヨシノは手近にあった真っ白な布巾で、軟膏や血が付いた手を丁寧に拭いながら、言う。
「ありがとよ。助かった」
 シカクは当てられたばかりの真新しいガーゼに手を当てた。火影邸を出たときに感じた傷口の火照りは、きちんと洗浄できていなかったことによる、炎症だったらしい。少し膿んでいたのもあり「こうなってしまっては縫えないから」と、ヨシノはあの手この手を尽くして、止血して、治療をしてくれた。
 奈良一族は、鹿の角から薬を作ることを得意としている。シカクの家は鹿の生育から薬の研究まで、全てを取りまとめることをしていたが、ヨシノの家はその角を使った薬の研究を主に行っている。ヨシノの家が一軒隣にあって、これほど感謝をしたことはない。
 シカクがガーゼの上から指先を、膨れ上がっている傷口に沿わせているとヨシノが
「その傷、残るわよ」
 ぴしゃりと言い切る。シカクは、気にしているつもりはなかったが、端目で見たヨシノが言うのであれば、そういう風に見えたのだろう。
 シカクはガーゼから手を退けると、
「構わやしねーよ。オレは男だしな」
 ヨシノに弁明をした。しかしヨシノといえば、いくつも開けてある軟膏の入れ物の蓋が、混じってしまったのか、ブツブツと文句を言いながら蓋を探している。同じ色ばかりだから、貼られたラベルと中身を合わせなくては、ならない。
 その真剣な横顔を、シカクは眺めていた。
 長いまつ毛が未だに湿っているのは、駆け込んできたヨシノが泣いていたからだ。母がなんと言ってヨシノを呼んだのか知らないが
「死なないで!」
 と泣き縋られてしまった。そしてシカクの顔を見ると、血の気と共に涙が引き、口を一文字に結ばせて、テキパキとした手で治療を始めた。
 シカクはヨシノの、輪郭のはっきりした、女らしい横顔に、見覚えがなかった。つるりとした額に、黒髪を張り付かせて、汗をかく姿にも。
 ヨシノと最後に会ったのはいつだろうか。父の簡易的な葬式だったか、それとももっと前か。しばらく見ないうちにヨシノは、随分、くノ一らしくなっていた。
 シカクが、幼馴染と言っても少し距離を感じている相手に思いを巡らせていても、ヨシノは蓋と軟膏のパズルに夢中である。
 しばらくしてやっと、解き終わったヨシノは、隣に広げた、濃緑の風呂敷の中に、次々と軟膏を入れていく。幾つかの軟膏と油の塗られた小さな包み紙を、まだ夕飯がのっている座卓に残して。そして、ぎゅっと風呂敷の口を縛るとだらしなく胡座を掻いていたシカクと、正座で向き合った。
 ヨシノはニコニコとしているが、シカクは背筋を震わせる。嫌な予感が、した。
「おばさん、ウチに来たとき腰が抜けてたわよ」
「それで母ちゃん帰ってこねーのか。悪ぃな。後で迎えに行くわ」
「シカク兄さんは、ここにいて。というか、このまま寝て。顔が真っ白よ。おばさんは後で私が連れてくるから」
 ただの世間話で終わらない。
 シカクが胡座をかいたまま背を正すと
「ところで」
 ついにヨシノは声色を変えた。それも低く、ゆっくりと。額に浮くのは、真っ青な筋。
「なんで、ウチのお父さんのところに、行かなかったの」
 本気で怒っている時の声だ。シカクは、その勢いに閉口してしまう。会うのも久しぶりであれば、怒られるのはもっと久しぶりである。
「わかってたでしょ、こうなるの。シカク兄さん、上忍になってもう何年経った? 下忍の指導もした人が、傷の経過もわからないなんて言わせないわよ」
「いや、その」
「はっきり言ってちょうだい」
 ヨシノはパシッと畳を叩くと、涙目でシカクを睨みつける。
 ヨシノの父は、薬だけを扱うヨシノと違い、きちんとした医療忍者だ。最低限の人間しか残っていない里の病院を担当している。もしも、火影邸を出た後に、シカクがヨシノの父のところに行っていれば、頬の傷口はすぐに治ったであろうし、痕にもならないだろう。
 ヨシノは、病院に行かなかったシカクもだが、自分の至らなさにも怒っているのだ。真面目な女。シカクのよく知る、ヨシノである。
「……病院にはオレ以上に大変なやつ、いっぱいいんだろ。だから、行けねーんだよ。オヤジさんの仕事を増やすわけにもいかねーし。オヤジさん、最近帰ってきてんのか?」
 シカクがヨシノの父について尋ねると、ヨシノは押し黙ってしまう。それは帰ってきていないという答えだと、シカクでなくともわかる。しかし、下を向いたヨシノがぎゅうと唇を噛んでいるのは、シカクでないとわからないだろう。
 ヨシノは、シカクの幼馴染である。ヨシノはシカクの世話を焼いてくれ、それからよく一緒に遊ぶ仲だった。しかし、それは幼き時分の話だ。
 男だから女だからといったことを気にせずに一緒にいられたあの頃から、十数年。アカデミーを卒業し、中忍ベストを着込み、忍として評価されている今、思い返してみれば、庭先でのおままごとはやっぱり遊戯であり、ただの大人の真似事だ。ヨシノが、将来誰かと迎えるであろうその時の予行演習に付き合っていただけ。そう割り切れるようになった今だからこそ
「ヨシノと結婚? 冗談言うなよ。そんな時もあったって話だ」
 と親戚での会食の席で笑えるのだ。大人の真似事は所詮、真似事。それ以上、深く考えることもなかった。
 だからだろうか?
 小指を結んで「また明日」と言っていた二人は、気づけばお互い、隣にいるのは別の人になっているのが当たり前になっていた。ヨシノはアカデミーでできた友人と、シカクはいのいちやチョウザと。
 幼い頃から慣れ親しんだとは言っても、結局はヨシノは女だ。男である自分とは違う。どこかで道を違えるだろうとは、思っていた。けれどヨシノは、シカクにとっては近所に住む親戚の女の子で、かわいい妹分なのだから、その道は離れても近いものだと勝手に信じていた。
 だから、小さな亀裂をシカクは見逃していた。会わなくなり、母から話を聞くだけの存在になってしまったと気づいた時には全てが遅かった。気づけば、まともに顔を合わせようともしなくなった。理由をつけなくても、会おうと思えば、会えたのだろう。しかし会わなかったのは、シカクがヨシノとの関係に溝があると感じたからだった。そして、溝の中にはシカクを寄せ付けない濁流が流れている。「また明日」とは言えない関係。大人になったシカクは、ヨシノとの関係をそう理解していた
「ヨシノ、だから」
「よく、わかったわ。そうよね。シカク兄さんは、そういう人だもの」
 ヨシノはぱっと顔を上げると、無理をして笑いを浮かべる。
「そういえば、言ってなかったわね。軟膏は明日の朝、また塗ってちょうだい。紙に包んでるのは増血丸と、それからお父さんが作ってた止血丸。研究途中のやつだけど……早く効くみたいだから」
 手早く、机の上に残した数々に説明をしていく。ヨシノが、自分の中で咀嚼しきれていなくとも、繕うようになっていたことにシカクはヨシノが大人になってしまったのではないか、という寂しさを感じた。けれど、ヨシノ自身がそうしたいと言うのであれば。
「オヤジさんの作ったやつなら効くんだろ。ありがとな」
 それに合わせるのが、離れた場所にいる自分のすべきことではないだろうか。近くにはいなくとも、こうやって見守ることは、川向こうのシカクにも許されるだろう。
「私も少し、手伝ったって言ったら?」
「……まぁ、オヤジさんが見たっつーんだったんなら大丈夫だろ」
「今の、何よ!」
 膝を崩してぷりぷりと怒るヨシノは、昔とは変わらない。額に浮いていた青筋も、消えている。
 ヨシノは、幼馴染と言っても妹のような存在だ。どんな顔も見てきた。一緒に育ってきた。そんなヨシノと道を違えるのは、結婚ぐらいだろう、とシカクは思っていた。
 母にしつこく言われた後でもあったから、そのヨシノが、どこで結婚を決めるのかーーー道を違えるのかーーーシカクは知りたくなった。心の準備を、しておかなければ、ならない。
「なぁヨシノ。ところでお前、将来はどうするんだ?」
「どうしたのよ、突然」
「いや、なんとなく気になっただけだ。この大戦が終わったら、いのいちもチョウザも結婚するみてーだから、お前はどうなのかなと思ってな」
 ヨシノと同い年のくノ一だと、結婚しているくノ一も多い。母から、ヨシノに誰か特定の人がいるといった話は聞いたことはないが、親に話しにくいこともあるだろう。でも自分になら……そう、期待を込めて。
「……特にないわ。そういった人、いないし」
 ヨシノはツンと顔を背ける。一方シカクは、ヨシノがそういった相手が持っていないことに、驚くと同時に、なぜかホッとした。大人っぽくなったとは言え、ヨシノにはまだ子供のようなところがある。まだ、早かったのだ。ヨシノには。
「でも、オヤジさんやオフクロさんはうるさいんじゃねーか?」
「母さんは、そうでもないわ。だって……」
 さらに話を核心に近づける。ヨシノにその意志があるのか確認をしたくなったのだが……。ヨシノの歯切れが悪くなった。シカクは不審に思い
「何かあったのか?」
 ヨシノに問う。すると
「あのね、シカク兄さん……私、今度、特別上忍になろうと思うの」
 結婚とは程遠い、昇格の話を出してきた。珍しくない話ではある。しかし。
「薬が使えるから、ぜひってお誘いもあってね……。大戦のこともあるし、力になれるのならなりたいと思っているの。今日、シカク兄さんを見て、決めた。治せる人がいるのなら、早く、その場で、治してあげたい」
 何か一芸に秀でた中忍がなる、特別上忍。本来ならば両手を上げて喜ぶべきところなのだろう。しかし、シカクは眉間に深い皺を作った。
 ヨシノの言葉を言い換えれば、薬の知識は認めるがその他の実力は依然、すでに上忍であるシカクに及ばない。けれど特別上忍になれば、そのシカクが怪我を負うほどの激戦地に、ヨシノは赴くこともあるだろう。だから、もしもヨシノに危険が迫ったとしても、ヨシノ自身が身を守りきれるかどうかわからない、ということになる。
 味方でも敵でも、くの一は多く見てきた。けれど、彼女らとヨシノの目的は大きく異なる。これから熾烈な争いが繰り広げられるとわかっている、そんな場所に医療だけを希望するヨシノを連れては行けない。
 そうシカクは判断した。だから
「……は? ヨシノは女なんだから、誰か適当なやつと結婚すりゃいいだろ。そして、オヤジさんのためにも子どもを産めばいい」
 ヨシノが送るべき、道を指し示した。中忍ならば、まだ戻れる。普通の、女の道を。実際、結婚を機に忍を辞めた女も多い。五体満足なうちに、子どもを産みたいと言って。
 しかしヨシノは、鋭い目でシカクを睨む。悲しみを含んだ瞳色で。
「シカク兄さんも、お父さんと同じことを言うのね」
「ヨシノ。お前はわかってない。戦場は」
「そんな相手、見つかるわけないじゃない! 大戦中だからって、好きでもない人と結婚するような軽薄な女に見えた?! 私が」
 声を荒げるヨシノを、シカクはじっと見ていた。乱れる呼吸にも細心の注意を払いながら、どこで次の言葉を発するか。
「シカク兄さんならわかってくれると思ってた」
「……そんなの、認められるわけがねー。いいか、特別上忍にはなるな。犬死なんてオレは認めねー」
 人材は確かに足りない。けれど、もしもの時のために実力がないとわかりきっている女を立たせるほど、困窮しているわけでもない。
 シカクがまた結婚を勧めようとした、その矢先ーーー。
「いいわ。シカク兄さんに相談した私が悪かったのよ。お大事に」
 ヨシノは立ち上がると、傍に置いていた風呂敷の固い結び目を掴んで、駆け出した。
「おい!! ヨシノ、待て!!」
 止めるために、シカクが立ち上がった瞬間、くらりと視界が歪む。さーっと何かが頭から引いて行き、舌にはぴりぴりとした電流が走った。その場で膝をついて座り込むと
「クソッ」
 小さく、呟く。
 回る世界の中で、一つの後悔をしていた。守るために、強くなることの辛さをヨシノに伝えられなかったことを。
 足下をを掬われた。濁流に。けれど、不用意に踏み込んだのは、シカクだ。

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