馬鹿がひと川越えるまで2:父と母

「奈良シカクです。滝の国方面の国境で行っていた後方支援作戦についてご報告にきました。座標は……地図上ですと、ここです。砂の忍の補給路を断つため、山に火を放ったところで成功としました。えぇ、作戦実行部隊とは合流したこの地点で交代を。作戦ですか? 事前確認通り最前手を……ではなく、これからのことですか。はい、現状を教えてください」
 シカクは、机を挟んで向かい合っていた初老の男が、細い切り傷だらけの指先で辿る、数字や文字で埋め尽くされた紙面をーーー現在の戦況が纏められている地図を、じっと見つめていた。
 男は若輩者に対して丹念に説明をしてくれるが、地図がシカクに全てを教えてくれる。
 戦線は膠着状態。
 元からある火の国の国境をなぞって、進みもせず退きもせずといった状況を続けている。大名は領地の拡大を目指したいところなのだろうが、結果としては現状維持。シカクは疑問に思ったが、戦線の動きを見て、この状況が故意に作られていることを察した。
「この滝の国を越えての峠は依然変わりなく、砂隠れが占めている。羅沙という砂金を操る忍に、手こずっているらしい」
「草隠れの方面の山は?」
「こっちは……」
 元より広い火の国だ。面する国や隠れ里も多い。気張る相手もそれ相応にいる。男の指先が地図を往復していくのを、シカクは黙って見ていた。
 今まで指揮を執っていた人物が、この大戦で失うものを、人だけに留めようとしていることが、読み取れる。例え、前線を上げ、領土を広げたところで、戦後に保持しうる力がもう木の葉隠れの里にはないのだと、理解していたのだろう。自分にそっくりな顔が、脳裏に浮かぶ。
「シカク、お前ならどうする? 医療忍者に罹る前に一つ、これからの木の葉を引っ張る者の意見として聞かせてくれ」
 眼前の男が、一番気にかけているであろう、火の国上部にある、草隠れの里と滝隠れの里、それぞれの境目を爪先でコツコツと叩き、強調させる。小さい里とは言え、名だたる忍がいる里だ。懸念の場所なのだろう。
「そうですね。オレなら……」
 シカクは己の見解を、血がこびりついた指先で地図をたどりながら述べていく。
 安定した補給路があるうちに前線の守りを固めること、不足している医療忍者の選定方法の新しい提案と配備について。それらは以前から考えていたことであったが、人に教える日が来るとは思っていなかった。
 シカクが粗方意見を述べ終えると、男は低い声で唸り
「やはり、そうなるか。お前から意見を聞けて良かった。ありがとう。その右頬、早く診てもらえ」
 シカクに礼を述べて、地図との睨み合いを続けた。シカクはその男を置いたまま、自分は速やかに本部となっている火影邸の出入り口に進んで行く。人が彼方此方で塊になっているこの場所に、シカクは長く居たくなかった。
 外に出たシカクを出迎えたのは、清涼な外の空気とまとわりつくような湿気、それにひぐらしの鳴き声であった。けだるい残照を、並んでいる木造家屋が、頭に乗せた瓦屋根で受けている。
 変わりのない、木の葉隠れの里の風景だ。
 ほっと一息をついたところで、厚い布が当てられた右頬がズキリと痛む。そして傷口に火照りも感じた。
 傷が開いてなきゃいーが。
 シカクは足を急がせた。医療忍者のいる病院ではなく、母が待っているであろう家へと……。
 大戦で家を失った人や商売を始めた人で賑わう里の中心地から抜け、荒い木目が浮いた塀が続く通りに入ると、シカクはやっと歩みを緩めた。
 どこぞの家から香る昆布だしの香りが、空っぽになっているシカクの胃を刺激する。ここのところ、兵糧丸や水といった、生命を維持するための最低限の食事しか摂っていなかったため脳裏を、炊き立てでつやつやと光る米が盛られた茶碗と、出汁のきいた具沢山の味噌汁が過る。ぐぅ、と腹が鳴った。
 戦時下と言えど、里の暮らしは変わらない。火の国には安定した気候と、山と海がある。物資に困ることはない。通る家のどこも、女や子どもの高い声ばかりだが、活気が漏れ出していた。しかし、湯の匂いに混じって白檀の香りが鼻をかすめた時にシカクは顔を人知れず、歪ませた。
 温かな日常の中に、冷たい死の気配が紛れ込んでいる。
 シカクも仲間を多く、失った。けれどここまで、仲間を想って涙を落とす間もなかった。戦死者は、火影邸で亡くなったことを告げられ、紙に名を書き留められる。そして戦後に、集合墓地に作られるであろう墓に名を刻まれるのを待つ。遺族も、同じだ。大戦が終わるまで、墓前に行くことすら許されない。
 それはシカクの家でも同じことだった。
 今、母が一人で待つその場所は、シカクが今回の作戦に参加するために発った時には、白檀の匂いで充満していた。シカクも、希代の兵法家と謳われた父を先日、亡くしたばかりであった。
 シカクは、その爽やかな甘い芳香から逃げるように、奈良の表札が並ぶ通りを真っすぐに進んで行く。そして地区の中心にある『奈良』の字を大きく掲げる砂利の敷かれた門の中に入った。砂利を踏みしめ、使い古された引き戸に手をかけると
「ただいま」
 母の返事を期待した。しかし、二人で住むには広すぎる住まいにはシカクの声が空しく響くばかりであった。
 任務から帰る日を伝えていなかったしなァ。どうせ、どこかの家に行っているのだろう。
 シカクはそう思い、式台に腰掛け、真っ黒になったサンダルを脱ぐと、締め付けた痕が残る足で力なく立ち上がった。それから家族が集うための居間にのっそりとした入り込むと、そのまま畳の上に倒れ込んだ。畳を顔をぶつけて衝撃でまた、ずきりと頬の傷口が痛む。しかし心を向ける気が起きないほどシカクは疲れきっていた。シカクの重い体を、空虚になった心が飲み込んでいく。
 長期に及ぶ大戦、父を含めた仲間たちの喪失ーーー。
 日が過ぎるたび、寂寥ばかりが募る。この、右頬の傷とて誰が叱ってくれるのだろうか。大戦前に素っ気ない石に名を刻むことになった師も、頭上の長押でしかめっ面をして座っている白黒の父も、もう叱ってはくれない。
「仲間を守るのが兵法だ。それはちげーねー。が、そのためには指揮を取るてめーも生き残らねーといけねーんだぞ」
 中忍ベストを着ての初任務に挑んだ後、病室で寝転ぶシカクに父は、苦々しい声で言った。兵法を知っているだけではどうすることもできない壁へ、初めてぶつかった息子への激励の言葉は、ぶっきらぼうなものだった。しかしシカクが、仲間を大事にしたい想いを組み取ったものであることを、シカクは十二分に理解していた。
 シカクは寝転がり仰向けになると、右頬を撫ぜた。この傷を作ったのは、敵対した忍が握っていた小刀であった。彼も誰かを守るために切っ先を自分へ向けた。それは、誰を守るためだったのだろうか?
 そこまで考えてしまったシカクは、勢いよく上体を起こす。時間を無駄にしている場合ではない。さっさと湯を浴びて、適当なものを腹に詰め込み、明日への準備をしなければならない。今日の様子を見ていると、父が遺した、木の葉の里を守るための作戦の続きも、今後はシカクが引き継ぐことになるだろう。
 シカクがその場からのっそりと立ち上がり、奥の洗面所へ向かう道すがら。突然、玄関の引き戸が開かれる音がした。
「ただいま。……あら、シカクの靴がある。シカク! ねぇ、シカク! 帰ってきてるの?」
 母の勢いの良い声が廊下に響く。
「あぁ! 帰ってきてるぜ! ただいま、母ちゃん」
 シカクは来た道を戻った。母に、無事でいたことを示すため、顔を見せたかったからだ。
「いつ帰ってきたの? 遅くなってごめんね、角のおばあちゃんが腰を悪くして……って、あらあら、大変なことになったわね。顔」
 シカクの頬を差して、母は言う。言うが、それだけだ。父だって怪我をして帰ってくることがあったから、特に驚きもしない。慣れているのだ。家族の怪我に。
「ちょっと切られただけだ。心配いらねー」
「でも、顔に傷が残ると面倒だからちゃんとしないと。アンタ、それ医療忍者のとこに行ってないでしょ。行ってらっしゃいよ」
「いいって。後でヨシノん家行ってくっから」
「まぁ、そうね。そっちの方がいいわね……でも、ヨシノちゃんのところは今、ご飯じゃないかしら。ウチも先にご飯にしましょ。シカク、体だけでも拭いてらっしゃいな」
 冷蔵庫に何が入ってたかしら、などと言いつつ母はいそいそと廊下を歩いて行く。そして、台所の中へと入っていくのを見届けた後に、シカクは洗面所へまた、足を向けた。

*****

 汚れが染み付いた服を脱ぎ、湯をたっぷりと溜めた湯船に体を浸けると、シカクは深く息を吐いた。そして水面から立っている湯気の中に、腹の底に溜まった鬱陶しいものを、溶かしていく。
 頬の傷のことを考えると風呂に入るべきではない。しかし、痕になってもよかったから今は、温かい湯に身を沈めたかった。凝り固まってしまっている神経を、解すために。
 シカクは湯船に背を預けると目を瞑る。そして台所から香る食い物の匂いに、湯の匂い、そして薄らと漂う白檀の香りが鼻をくすぐっていくのを感じ、やっと、自分自身を日常の中に、落とし込むことができたように感じた。手放してそうできたのは、母が普段通りであったからだった。
 父が敵に討たれてからの数日、祝言を執り行った時に撮った写真と向き合い続けていた。家事もせず、暗い部屋の中で、写真の中の人と会話するように。そうやってすっかり気落ちしていたが、今では父がいた時と変わらぬ様相を見せている。
 父と母は、生まれる前から結婚が決められていた。シカクから見れば祖父母にあたる人たちが決めた日に、夫婦になったと父から聞かされた。
 母にとって結婚生活がどういうものだったか知らぬ。しかし父にとっては災難であったことは想像に難くなかった。任務に出れば兵法家として仲間から頼られている男が、家に帰れば口うるさい女の尻の下だ。
 忍具は散らかすな、巻物はちゃんと片付けなさい、鹿はどうなっているの、薬はどうするの……等々を毎日、問い詰められていた。シカクが「決められていた結婚とは大変だ」と思うほどに。
 けれど不思議なことに、父が母についての愚痴をこぼしているところを、シカクは見たことがなかった。むしろ
「ウチのことは、母ちゃんに任せてっからなァ」
 そう言って、母が淹れたぬるい茶を、啜っていた。その茶だって、文句を言いたかっただろう。父は、本当は熱めの茶の方が好みである。が、母が淹れてくれたから、という理由だけで父はその茶を飲む。シカクが今浸かっている、風呂と同じ、少し湯気が立つ程度のお茶を。
 父の言うことの、大半は理解してきたつもりであったが、そればかりはどうしてもシカクには理解ができなかった。自分の好きな温度の茶も飲ませてくれない女に、文句を言えないのはおかしいと思っていた。だから自分が伴侶に選ぶのならば、母に似ていない、口数の少ない、静かでおしとやかな女と結婚できれば、と淡い期待を抱いていた。けれど、そんな女、母も含めて身近にいるわけもない。
 シカクが湯から上がれば、父の写真が飾ってある部屋で母が夕飯を並べて待っていてくれた。それから食事を共にした。いくつか近況を報告しあい、出来立てのおかずを突くと、シカクをほんのりとした柔らかい眠気が包む。けれど
「ミナトくん、クシナちゃんといい感じらしいわね」
 突然、母はそんなことを言い出した。シカクが腹がふっくらと膨らんだ焼き鮎に、箸先を刺した時のことであった。
「いのいちくんは商店街のお花屋さんの娘でしょ、チョウザくんは三丁目の定食屋さんの看板娘。ウチは?」
 伸びていた睡魔の手が、引いていく。
「いねーよ。ここんところ、任務ばっかりだぜ? オレ」
 真っ当な食事にありつけるのは有難い。きちんと下拵えのされた魚に、しっかりと焼き色がつけられた肉、それに水分を多く含んだ新鮮な野菜。シカクが食べたいと願っても、なかなか食べることが叶わない中、それらを食べられる時間は本来、風呂に続いてホッと一息つけられる時間のはずなのだが……。
「こっちに居られる間は、将来のこともきちんと考えなさい」
 母は、許してはくれない。
「あのなァ、戦争中だってのに、忍の嫁になりてー女なんていると思うか?」
「同じくノ一なら、アンタの嫁になりたがるんじゃないかしら」
 忍ではない母に、忍のことはわからぬ。くノ一とて並の忍と変わらないため、暇ではない。ミナトとクシナとて、大戦が始まってから顔を合わせることが少なくなった、とお互いが言っていた。
 両親の時代より恋愛が盛んであるから、自分の息子にも、と願いたい気持ちはあるのだろう。しかしシカクには同じ部隊に配属されたくノ一を、仲間以上の目線を持つことができなかった。
「いいや、ダメだ。それは」
「それは?」
 黒漆で仕上げられた椀に口をつけた母を前に、シカクはピシッと箸を揃えて卓上に置いた。これから先、シカクが話そうとしていることは、母の琴線に触れることである。そこに触れるか触れまいか、ずっと悩んでいたことであった。
「……オレだって、いつ死んじまうかわかんねーんだぞ。母ちゃんは辛くねーのか。オヤジが死んじまって」
 父の写真と向き合う母の小さな背を、シカクは見守り続けた。沈痛な背に、何と声をかけるか迷い続けていた。それを、ここで初めて止めた。保身で逃げるためではなく、一人の忍の伴侶として向き合うために。
 母も椀を置く。それから少しの間も。これはシカクにとって、長い時間のように感じられた。俯いた母が口を開けるまで、ほんの一瞬であったが曇った表情になっていたことを見逃さなかったからだ。まだ、部屋で父と対話していた時の母が残っている。しかし、母は表情をすぐにそれを切り替えて、シカクを目でしっかりと捉える。そして
「私は、忍の嫁。シカクが思っているよりも、ずっと前から覚悟してあったのよ。もしも」
 シカクに向かって言う。
「もしも?」
 聞き返すと、母は、奈良一族の当主の嫁らしく、忍の伴侶らしく、凛とした雰囲気を纏って、シカクに告げる。
「一人でも、アンタを育て上げる覚悟」
 母から直接その言葉を聞かされた時、シカクは父がぬるい茶を啜り続けていた理由を感じ取った。父にとって、この女が出す茶は、安心して飲めるのだ。好きな温度でなくとも。もし他の女といっしょになっていたならば、文句をつけている。父のことは、シカクとてよくわかっているつもりだ。
 母は最後に
「だから、お父さんにあの世でアンタのことをちゃんと話せるように、早く結婚しなさいよ」
 そう付け加えらと、再び椀に口をつけた。しかし、シカクはその言葉を聞かなかったことにした。父にとっての母のような、安心して飲める茶を出してくれる女に、少しも心当たりがないからだ。

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