その場所が近づくと、あれほどいた鹿たちは森の中へと姿を消していった。森を知り尽くしているであろう鹿たちが踏み入れない場所。その場所に神様とやらが住んでいる?
シカマルが二十数年ぶりに訪れたその場所は、誰も立ち入らないせいか地面が苔で覆われており、太い幹の木だけが点在している。空の頂点にさしかかった太陽の光が漏れこんでいるにも関わらず、冷たい空気が流れていたが、冬が近づいているから、土が露わになっている部分が少ないせいで、といった理由ではないことを直感的に理解した。
自分たちだけではない『何か』がここにいる。その正体が何かはわからないが、人ではないことは確かであった。
ここで特別なことをする必要はない。
当主が、次期当主をこの場所に連れてくるだけで良い、とシカクのメモに書かれていたから、シカマルはすぐにその場から引き返そうとした。
オヤジもメモじゃなくて先に言っといてくれたら、よかったのによォ。
背筋に冷や水をたらされているかのような悪寒が走るのが、気持ち悪い。早く家に帰ろうとしたのだが、シカマルの腕の中にいたシカダイが下ろせと暴れる。どこかに行かれても困るからと抑えようとしたのだが、シカダイはするりと器用にシカマルの腕から抜け出すと、大木の中を駆け出していく。
シカダイは気の強い母親に似たところもあるのか、多少のことを臆したりはしない。初めて見る場所の物珍しさへの好奇心の方が勝ったのか辺りの大木を眺めて、自分よりも大きな木の根を越えて奥へ、奥へと入っていく。
「シカダイ!帰るぞ!」
シカマルが声をかけてもシカダイの足は止まらない。
杉の根元に作られた、まん丸い幹のトンネルをくぐってしまうと、今まで頼りにしていた黒い房も見えなくなる。
慌ててシカマルが後を追って、トンネルをくぐるとシカダイはその先にあった、大木の根本にある木の股に顔を突っ込んで
「とーちゃ!とーちゃ!」
と叫んでいた。
「どうした?」
シカマルがシカダイの頭越しに中と覗くと、そこには水が溜まっていたのだが、その水面に。
「坊主、元気そうだな。うちの倅の小さい時にそっくりだ」
亡くなったはずのシカクがへらへらと笑って、そこに映っていた。シカダイが間違えるほどそっくりな顔、そして、二本の傷。シカマルが間違えるはずがない。
「オヤジ?」
思わず問いかけると、水面にいるシカクが口をぽかんと開ける。
「お前……シカマルか?」
「……木箱、母ちゃんに見つからないように片しておいたぜ。昔もらった、母ちゃんからの手紙」
おそらく、この世でこの話が通じるのは自分だけだ。シカクが隠したがった、箱の中身も。
父が隠した木箱の中身を知ったのは偶然だった。
ヨシノに言いつけられて物置に行った際に、木箱から何かを取り出してにやにやと笑っている父がいた。面倒なことになるといけないからと声をかけることはなかったが、後日気になって中身を見てみれば、そこにあったのは予想と違うものだった。大人が隠して持ちたがるのは、カカシ先生の読んでいるような小説や、アスマが見ていた大人の女性がいやらしいポーズをとっている写真だとばかり思っていたが、父が隠していたのは、母が父と交際している時に送ったであろう、いわゆるラブレターというものだった。
「中身を知ってるってことはやっぱり、シカマルか……。オレみたいにヒゲまで生やしちまってよォ。子は親の背を追いたがるって言ったもんだが、お前まだオレを追いかけてるのか?」
うるせぇ、とシカマルが下唇を突き出すとわははと声を上げて笑う。あの時で、時が止まってしまっているのか最後に見たシカクと、姿形は何一つ変わらない。
「ってことは、その子がシカダイか。いやァ、シカダイは本当に目がテマリちゃんに似てるんだなァ。母ちゃんが言ってた通りだ」
母ちゃんが?
「待ってくれ。どういうことだ? 母ちゃんが言ってたつったけど」
言葉に引っかかりを覚えたシカマルがシカクに尋ねると、シカクは顎髭を撫でながら、知った経緯を話してくれる。
「母ちゃんの声がよく聞こえてきてよォ。お前がテマリちゃんと結婚しただとか、シカダイが産まれたとか全部教えてくれたんだよ。どっから聞こえてきてるかわからねーし、本当のことかどうかわからなかったんだけど、シカダイ見たらわかったわ。全部、本当だったんだな」
シカクは、シカダイの顔を凝視するとうん、うんと何度も頷く。何に納得しているのかシカマルには測りかねるが、シカクの中では何かが合点いったらしい。そして、写真に話しかけていた母の行動は無駄ではなかったということはシカマルも理解した。けれどそうなれば、なぜ、となる。
なぜ、父がここに?亡くなった父がここにいるのはどう考えてもおかしい。幻術の類かと思ったが、ここに来るまで術式の類は見なかったし、誰も立ち入らないこの場所にわざわざ術をかけていく必要性も感じられない。それにこの『しきたり』自体が、本来は当主から次期当主へ口で伝えられるもの。外部に漏れるはずもない。ということは。
ここは 神様の住む場所。そこに、父がいる。
あまり出したくない結論ではあるが。
「神様のイタズラ、ってとこじゃねーの?」
母の声が届いたのも、今ここで父と会えているのも、そう考えるしかない。
「かもなァ。ま、原理がよくわからねーのが気持ち悪いが。シカダイがその歳で、オヤジと二人きりってことはお前、『神様たちが住むトコ』にいるんだろう?」
「あぁ」
「じゃあ、神様のイタズラだろうなァ。そこは不思議な場所でよォ。大事な失くしもんをそこで見つけたり、そこで汲んだ水で傷口を洗ったらすぐに治ったりするんだってよ。ご先祖様の中には理想の嫁をそこで見つけた人もいるらしい……ってオレのオヤジが言ってた」
シカクの言うオヤジとはつまり、シカマルの祖父。シカマルが産まれる前に亡くなってしまったから顔を写真で知っている程度だが、祖父を知っている親戚によるとたいそう聡明にもかかわらず、常に妻の尻に敷かれていた人であるとは聞いていた。
「そんなことありえんのか? 嫁を見つけるってなんだよ。ソレ」
「だから『神様たちの住む場所』なんだよ」
人智の及ばぬ場所。そして、そこから恩恵を受けてきたからこそ、敬意を表して『神様』という枕詞を使ったということなのだ。
「ま、なんにせよ、初孫の顔が見れてオレァうれしーぜ。写真はこっちには届かねーからよォ。シカダイ、言えるか? じいちゃんだ。じいちゃん。言えるか?」
デレデレとシカダイを見るシカクの顔は、眉が下がりきっていて、酔っ払っている時以上にだらしない。もしもシカクが生きていたらずっと、こんな顔をしていたのだろうか?
「じ……?」
最近やっと意味のある言葉を話せるようになったシカダイには、聞き慣れない単語に戸惑う。とーちゃ、かーちゃ、ばーちゃ、ちか、よく見るものしかまだ話せない。
シカクが
「じ・い・ちゃ・ん」
細かく言葉を区切ってやると、シカダイは
「じ……じ……じーちゃ?」
他と同じで形にはなっていないが、それらしい言葉を発する。それを聞いてシカクは笑い皺をより一層深くさせた。
「そうだ! シカダイは賢いなァ! 名前も言えるか?」
シカマルがシカダイの耳元で「お名前は?」とささやくと
「しかだい!」
元気よくシカダイは答える。何回も練習したから、ほとんど条件反射のようなものだ。
「良い名前貰ったなァ。よかったな、シカダイ。ばあちゃんと母ちゃん、それに父ちゃんの言うことをちゃんと聞けよ」
名前を呼ばれて、シカダイは「じーちゃ、じーちゃ」と水面のシカクに何度も呼びかける。しかし、さっきまで喜んでいたはずのシカクの顔は、徐々に曇っていく。
「シカマル、シカダイを早く連れて帰れ。積もる話は、あるけどよォ。そこは長く居ちゃいけねー場所だ。メモに書いてあったろ?神様たちが住む場所だ。オレだってそこに長く居続けたら、どうなっちまうかわからねー」
シカマルにこの場所から早く出ろ、と告げる。
シカクの言うことはわかる。しかし、会えたばかりなのに?シカダイもやっと祖父の顔を見ることができたのに?他に何か聞いておくことはないか?
シカマルが返答を戸惑っていると、シカダイが水面に手を伸ばしてシカクも、木や葉と同じように触ろうとする。しかし、指先から伝わる感触は水と変わりがない。パシャパシャと叩くと、水面のシカクは「いないいない」と両手で顔を隠す。そして、「ばぁ」と舌を突き出した顔を見せてやると、シカダイがキャッキャと声をあげて喜ぶ。
離れがたいのは、自分だけではない。それは向こうも同じ。
シカマルは意を決して、別れを告げることにした。
「……オヤジに、シカダイの顔が見せれてよかった」
「オレも孫の顔が見れてよかった。シカマル、後のことは頼んだぞ」
「あぁ」
シカダイ、バイバイだ。
シカマルが水面に向かって手を振ると、シカダイはよく意味もわからないまま、シカマルの真似をする。シカクは複雑そうな顔で手を振り返すと、
「じゃあな」
それだけを残して、姿を消した。シカクがいた場所はただの水溜りとなり、底に生えている苔からぶくぶくと泡が吹き出して、水面を揺らす。
「じーちゃ?」
突然いなくなった人を探してか、シカダイは水溜りの中に手を突っ込むとばちゃばちゃと水音をたてて、水面をさらに揺らす。
「じいちゃんは帰ったよ」
シカダイに言うが、まだ一歳を過ぎたばかりのシカダイにはシカマルの言葉はわからない。服が濡れるのも気にせずに、水面を揺らし続けた。