「そら、いっち、にー、いっち、にー」
「いーにーいーにー」
シカマルの声かけを繰り返しながら歩くシカダイが履いている緑の靴は、泥で茶色に変化している。テマリが、月齢の近い子をもつカルイと一緒に買いに行ったという、このファーストシューズなるものを残しておきたいと言っていたがこの分だと、すぐに捨てることになりそうだ。
シカダイはそんな母親心も気にせずに、水たまりの中に突っ込んでいく。そして、ばしゃばしゃと音をたてて、その水音を楽しんでいる。
「こら、シカダイ。水たまりには入るな」
シカマルがシカダイの腕を引いて水たまりから出すと、シカダイは不満そうに下唇を突き出して、シカマルに抗議をする。涙目になっていないから、ここで泣きわめいたりはしないだろう。
「母ちゃんに怒られるぞ」
シカマルは歩き出そうとするが、シカダイは動かない。
まずったか。
と一瞬。思った。シカダイが地面にかがみこんで、顔を上げないからだ。
シカマルがシカダイの顔をのぞきこむと、目をキラキラさせて地面に転がっているものを見つめていた。その視線の先にあったのは、つるりとした丸いどんぐり。シカダイは、帽子をきちんとかぶって、虫食いのないきれいなどんぐりを見つけたのだ。そして、小さな手を伸ばして、それを拾い上げるとまるで宝物のように、大事そうに、握り締めた。
「良いもん見つけたな」
シカマルが褒めてやると、シカダイはニシシと嬉しそうに笑う。そして、シカマルに拳を突き出すと、
「どーぞ!」
今見つけたばかりの宝物をプレゼントしてくれた。
「ありがと」
シカマルの手のひらの上でころん、とどんぐりが転がる。シカダイは満足そうにふんと鼻を鳴らすと、歩きはじめる。
おにぎりのような形をした小石、虫食い穴が大きい落ち葉……。
それらを目ざとく見つけては、シカダイはシカマルに機嫌よくプレゼントしてくれた。シカマルには価値のないものでも、シカダイにとっては価値のあるものらしい。一つ一つを取り上げては自分で吟味をして、良いものを選ぶ。低い目線の世界の中で。
「かーちゃ」
シカダイが地面にあるものを掴んで、テマリを呼んだ。
「母ちゃん?」
シカダイの手のひらには、茶色の何かが握られている。それがイガからはじけた栗の実だと気づくのにさほど時間はかからなかった。テマリが好んで食べている甘栗のパッケージを見て、栗=母ちゃんの図式が出来上がってしまったようだ。
「かーちゃ、かーちゃ、どーぞ」
シカマルに何度も栗を見せつけてくる。
「そうだな。母ちゃんにやろうな」
シカマルがポンと頭に手をのせると、またニシシと笑う。シカマルはその栗を、シカダイの服についていたポケットにしまってやると、目を丸くしたシカダイは膨らみを手を当てた。
シカダイにどんな世界が見えているのか、大人になってしまったシカマルにはわからない。シカダイと目線を合わせても、シカダイほど器用におもしろそうなものを見つけることができなくなっていた。石はその辺に落ちているものであり、落ち葉は庭の掃除が面倒になるだけのものなのだ。
けれどシカダイの世界では、それらにシカマルがつけた理由とは違う、何かしらのものがあって、そこにいる。
シカマルは丁寧に、シカダイが渡してくれるものを見ていた。意思の疎通ができるようになったとは言え、シカダイは思考のすべてを教えてくれるわけではない。
テマリ、すまねぇ。昼過ぎるわ。
帰りが遅くなることに、シカマルは心のなかで妻に謝ると、シカダイがくれたものをバックパックの外側のポケットの中にしまいこむ。
そして、握っていたシカダイの手を放してやった。
おもしろいもん、いっぱい見てこい。
そう考えて。
両手が自由になったシカダイは辺りをさわり散らして、進んでいく。
でこぼこが激しい木の表皮を押し戻すように手のひらで叩くと次に、脇に生えていた猫じゃらしに目をつけて顔を近づけると穂に鼻先を叩かれて驚いて、それから……。
五秒と同じところに、シカダイはいない。次から次へと場所を変えて、あれやこれやを見ていく。天辺で一本に縛られた髪が森のなかでよく目立つから、シカマルがシカダイを見失うことはない。ぴょこぴょこと動き回る、細い房を見守りながら、シカマルが進んでいくと、ひらけた場所にたどり着いた。
シカダイは灌木から葉をちぎるのに集中していて気づいていないが、空間の真ん中に、一本の背の高いもみじの木が生えていた。頂点に緑がまだ少しだけ残すその木は、ひらひらと、赤や黄になった葉を落としている。
テマリならば「美しい」とでもこぼすのだろうが、シカダイはその感性を受け継がなかったせいか、まったく興味を示さない。シカマルとしては植物に関心があろうとなかろうとどうでもいいことなのだが、こんなものも世の中にはあるだということは息子に知っておいて欲しいと思う。
シカマルは屈んで地面に落ちているものを一枚を拾うと、茎の部分を指で挟むとくるくる葉を回す。そして
「シカダイ、もみじだ」
シカダイの名前を呼ぶとシカダイは名前を呼ばれた方へとやって来て、シカマルの手の中で動いているもみじをしげしげと見つめる。もみじが、というよりは回っている葉が気になるのか、深緑を左右に忙しなく動かす。
子どもの手のような形をしている葉を見て、ふと思い立ち
「シカダイの手とどっちがでけぇかな」
シカマルは、シカダイの手を取り上げて手のひらに、葉を重ねると若干、シカダイの方が葉からはみ出ていた。この前、産まれたばかりのように感じていたが、一年も経てばもみじの葉よりも手を大きくなる。
「でっかくなったなァ」
シカマルが感慨深そうに見ていると、シカダイは葉をくしゃりと掴み、その感触がおもしろかったのかきゃっきゃと声をあげて笑う。手の中で形を崩れていく、もみじの葉は赤の破片を地面に散らしていく。手の中から何もなくなったのを見て、シカダイは不思議そうに手を開いたり閉じたりする。
「なんで、なくなっちまったんだろうな?」
シカマルは苦笑しながらシカダイの手を握ると、もう一度、目的地に向かって歩きはじめた。
それからしばらくの間、シカダイは機嫌よく歩いてくれていたのだが、ついに疲れからか、ぐずりはじめる。
「ゔー」
と唸って、道の真ん中でシカダイは座り込む。
さっきんとこで休んどきゃよかったかなァ。
鼻をぐずらせているシカダイをシカマルは抱き上げると、まだ地面が乾いていそうな場所を探した。昨晩の雨のせいで、木の根元はどこも座れそうにない。
偶然見つけた大木の軒先を借り、足の上でシカダイをあやしながら持ってきた荷物を広げると、テマリが持たせてくれた子ども用のせんべいを取り出して、シカダイに握らせた。すると、すぐに泣き止み、丸い頬に涙粒を転がしながら、手の中のせんべいにもちゃもちゃと食いつく。
その姿を見て、思う。
オレもこうだったかなァ。
記憶にはない。
すっかりせんべいがなくなってしまった後に、ストローのついた容器を持たせると、中に入っているお茶を吸い上げる。シカマルも水筒から茶を飲みながら
「後ちょっとだからな」
シカダイに話しかけると
「あい!」
元気よく、シカダイは返事をした。
汚れた靴下を替えてやるついでに膨らんでいたおむつも替え、すっかりシカダイの機嫌を取り戻したところで、シカマルはシカダイを肩車して出発した。高い位置に連れてこられたシカダイは
進行が遅れているというのもあったが、シカダイにはこれから先の道は厳しいかもしれないと判断したからだ。
ここまでも地面がぬかるんでいて、シカダイには歩きにくい道が続いていたが、もうすでに人の手が入っていないせいで房すら見つかるかどうか怪しい道が続く。だから、迷子にさせないためにも、シカダイを担いだ。
悪路と言っても、シカマルには造作もない。頭にしがみついているシカダイに時おり話しかけながら水たまりを避けて歩いていると、久しぶりに森に来たシカマルを見にきたのか、低木の隙をぬって、鹿が集まってくる。今の今まで出てこなかったのは、シカダイのことを嫌っているわけではなく、自分より小さく、力が弱い人の子を傷つけないためだ。
シカマルが歩をすすめるたびに一匹、また一匹と低木の隙から鹿は出てくるから、気づけばあたり一面を、一族が管理している鹿たちがシカマルを埋めていた。
「今日は、何も持ってねーぞ」
とシカマルは鹿たちに言うが、それでも彼らはついてくる。かわるがわるに角を切ったばかりの平らな頭を、シカマルの太ももにこすりつけて足元から離れない。
「ちか」
シカダイがシカマルの黒い房の根元をぎゅうと掴む。
「こんなに鹿をみたことねーか?」
不安なのかシカダイは、シカマルの頭に抱きついて目の前を覆ってしまう。
「おいおい。父ちゃん、前見えねーから」
シカダイの手を外すが、すぐにまた視界を隠れる。あまりの鹿の多さに怯えているシカダイを落ち着かせようと、シカマルが歩みを止めてしまうと、今度は鹿がシカマルの尻を頭で小突く。小さなころからされているから慣れているとは言っても、それでも多少なりとも痛みはある。
せっかちすぎるだろ。
首からシカダイを下ろし、抱っこしてやると胸元に顔を伏せてしまって周りを見ない。もう少しばかり遊ばせてやりたがったが、鹿たちのせいでそうもいかない。シカマルは鹿に膝裏を突かれて、一歩を踏み出す。
シカマルたちが目指す場所への道程は、まだ残っている。