シカダイがやまなか花から帰ってきても、家の中にはまだ人気が少しもしなかった。出てきた時とかわりなく、誰もいない。
不思議に思い、テマリがいるであろう台所や洗面所をシカダイは覗いたが、そこには誰もいなかった。卓上に置き去りにされた菓子パンも、朝食の準備のために、とまだ片付けられていない。
ひょっとして、と思ってシカダイはゆっくりと階段を上ると、自室の斜め前にある両親の寝室の前へと立った。
入る用事もないから、ここに来ることなんて滅多にない。その奥にあるシカマルの書斎には、たまに夜食を運んだりすることがあるが、それも一年に何度かあるぐらいだ。
ドアを開ける前に、塞いでいる木の板に耳をつけて、中を様子を伺う。もしも、軽率にドアを開けて、そこでテマリが着替えている最中だったら、そういうお年ごろの入り口に立とうとしているシカダイには、気まずいことこの上ないからだ。
しかし、中からは何の音も聞こない。クローゼットを漁る音も、布がすれる音も。
しーんとしているドアの向こうで、何が起きているのかシカダイにはわからない。驚くほど誰の気配を感じないからだ。
父ちゃんも母ちゃんももう家を出た?けど、そんなことあるか?
いくら母の誕生日だからといって、アカデミーの女子が見ているようなドラマみたいに、朝から優雅に散歩……なんて洒落たことを父はしないだろう。ウチでドラマを見るのは、母だけだ。それに今日みたいな、里で催しものが行われる日は、忙しくなることがわかりきっているから、父がわざわざ自分から体力を削るようなことなんて、したがらないはずだ。
だとしたら、二人ともまだ寝てるってなるんだけど、本当にいるかわかんねーしなぁ。
シカダイは迷った結果「確認するため」だと自分に言い聞かせて、ドアノブに手をかける。普段訪れない場所に足を踏み入れるのは、家の中とはいえやっぱり緊張する。
少しだけドアを開けて中を覗くと、真正面にある窓にはまだカーテンがかかっており、生地を通してぼやっとした朝日が差し込んでいた。薄暗かったが、カーテン下のベットにまだタオルケットの山が二つ、離れてあるのがわかるくらいの明るさはなんとかあるようだった。
母ちゃん、まだ寝てるのか。珍しい。
テマリがまだ寝ていることを確認すると、すぐにシカダイはドアを閉める。そして、すぐ近くある、冷房がつけっぱなしになっている自室へと入っていく。ベットと机、それからシカマルが置いていった将棋盤ぐらいしかない部屋は、先程部屋を出た時よりも明るい光で満たされていた。
テマリが起きたら即座に気づくように、部屋に入ってすぐのところに設置してある、壁と向かい合っている机の中から椅子を引き出すと、シカダイはドカリと座り込む。握っていたミニブーケを机の上に置くと、『ガーデニア』といのじんが言っていた白い花からふわりと甘いニオイが立ち上った。
この匂い、どこかで嗅いだことがある気がするんだけどなァ。
匂いにまで注意して記憶することなどないから、いくら糸を辿っても正解らしきものと出会えない。なんだったか、と眉間にシワを作って、よく冷えた机の上に顔をのせると、飛び込んでくる目覚まし時計を見た。短針が六、長針が三を過ぎたばかりの時間だ。
もう、匂いの正体をつかむことを諦めざえるをえない。なにせ、完璧だと思い込んでいた計画が狂っているのだから。
おかしい。母ちゃん、いつもなら六時には絶対起きてるのに。
シカダイの予定では、もうテマリは台所に立っていて、朝食を作りかけている途中だ。そこにプレゼントであるミニブーケを持って、自分が帰宅し、その場で「誕生日おめでとう」と言うはず、だった。
何がどうなってるんだか。
シカダイはぐるぐると空腹を訴える胃に手を当てると、やっぱり菓子パン食っときゃよかった、と思いながら目を瞑った。
*****
「シカダイ!起きな!!」
階下から響くテマリの声でシカダイが目を覚ますと、とっくに七時を過ぎて、もうすぐ八時という時間だった。
アカデミーがあるならば確実に遅刻の時間なのだが、夏休みの今はそんなこと関係ない。大きなあくびをして、変な格好で寝ていたせいでできてしまった首の凝りに手を当てると、のんびりと椅子から立ち上がる。そして、体を起こすために、うぅんと大きくシカダイは真上に伸びると、机の上のミニブーケを手にとってのそのそと自室のドアを開けた。
廊下に出ると、シカマルが見ているのであろう、ぼそぼそと喋るテレビの音と、朝食の味噌汁のニオイがあがってきていた。味噌汁に使われている出汁のニオイが胃を刺激して、そういえば腹が空いていたんだと思い出させる。
早く朝食にありつくため、急いで階段の踊り場までシカダイが行ったところでピンポーンと玄関からチャイムの音が響き、それから
「おはよう!」
元気なヨシノの声が聞こえてきた。
まずい。
シカダイはそう判断して、とっさに階段手前の壁にはりつくと、気配を消す。
ばあちゃんが来る前に渡そうと思ったのに。
手の中にあるミニブーケをきゅっと握り締めると、首が痛いことも含めて後悔が押し寄せる。
なんで寝ちまったかなぁ。今出て行けば、確実に父ちゃんの昔話のフルコースだぞ。めんどくせー。
どう足掻いても、今年はヨシノの昔話から逃げることはできないようだ。
これからどうしようか、と頭をひねっていると、階下で繰り広げられているヨシノとテマリの話が耳に入ってくる。
「テマリちゃん、誕生日おめでとう」
「ありがとうございます。おかあさん」
テマリが感謝の言葉を述べると、あのねとヨシノが切り出す。
「プレゼント、迷ったんだけどこれはどうかしら」
しゅるっと風呂敷が解かれる音がして、それからすぐにテマリが「わぁ」と声をあげる。
ヨシノが何を贈ったのかが気になって、シカダイは壁から階下を覗き見ると、風呂敷の中には先日、シカマルがテマリに送った浴衣の生地と同じ、松の葉と同じ色をした、何かが入っていた。遠目からでは、それが何かがわからない。
「これって」
テマリがそれを手にとり広げると、やっとそれが着物なんかを着る時によく使う帯、だということがわかった。そして、その帯の端の方には、一族の象徴でもある鹿の姿が銀の糸で縫い込められていたのを、シカダイは見逃さなかった。
あの帯、高いんじゃねーの?なんか、光ってんだけど。
「高いんじゃ……?」
同じようなことをテマリは思っていたらしい。玄関の磨りガラスから差し込み光を受けてキラキラと輝く帯を持ったまま、テマリがヨシノに震える声で尋ねると
「せっかくのかわいい娘の誕生日だもの!奮発しなきゃね。帯ぐらい、わたしに買わせてちょうだい」
穏やかな口調でテマリに言う。そして
「あのね。あの浴衣の生地を見せてもらって思い出したんだけど、昔から伝わる色の組み合わせで、楓、っていうのがあるの。青と青を重ねる色でね。夏に着るのはもちろんなんだけど、楓の花言葉は『大切な想い出』だから。今日一日が、テマリちゃんにとって良い日になりますように、と思って。ぜひ、お祭りに着て行ってあげてちょうだい」
テマリは帯を大事そうに撫でると
「おかあさん……。ありがとうございます。大事にしますね」
感謝の言葉を述べる。ヨシノはそれを聞いて嬉しそうに笑うと、帯を包んでいた風呂敷ごとテマリへ手渡す。
テマリは玄関先にも関わらず、その場に座り込むと、貰ったばかりの帯を広げてしげしげと眺め始めた。シカダイの角度からは、残念ながらテマリの顔を見ることができない。だから、どんな表情をしているのかわからないのだが、同じように段差に座ったヨシノが、テマリを見て微笑んでいるのを見ると、表情は予想できた。
そうとう、嬉しそうな顔してるんだな。母ちゃん。
二人の様子を見て、渡すなら今だと判断したシカダイがミニブーケを渡しに行こうとした瞬間、台所からドンドンドンと不恰好に廊下を歩く音が、二人の優しい雰囲気を壊しにきた。
音の主はテマリのところまでくると、玄関に座り込んでいるヨシノを見て
「なんだ母ちゃん、来てたのか」
とだけ言う。テマリがすぐに
「おかあさんに帯を貰ったんだ」
顔を綻ばせて、シカマルに報告したのだが
「浴衣と同じ色の?母ちゃん、被せてきたのか?」
眉間にしわを寄せて、風流もへったくれもないような返答をする。それを聞いて、テマリは、さっと帯を畳むと、風呂敷の口も結んでしまう。
「お前はそういうやつだったな」
ため息をついて。
一連の流れを見ていたシカダイも「父ちゃん、そりゃねーぜ」と心の中でつぶやく。
ここではっきりと怒りを露わにしたのは、ヨシノだった。勢いよく立ち上がると
「まずはおはようございます、でしょ!シカマル、ちゃんとテマリちゃんに『おめでとう』って言った?」
記念日にうるさいヨシノがシカマルをガミガミと怒ると、シカマルは低い声で「言った、言った」と言いながら、さっきまで帯が広がっていた玄関に座り込んで、サンダルを履いていく。
「言ったは1回でいいの!」
「はい、はい」
「はいも!」
「はい」
父ちゃん、そりゃねーぜ。
シカダイは心の中でもう一度そうつぶやいたが、その声は決してシカマルには届かない。
シカマルは手際よく履きなれたサンダルをつけると、パチンと最後の金具をつけ、まだ怒っているヨシノを無視して、すくと立ち上がる。それから、
「テマリ、任務頼んだぜ」
突然、任務の話を持ち出した。
任務?母ちゃん、今日任務行くのか?誕生日なのに?祭の日なのに?浴衣まで作ったのに?
シカダイの頭に様々な疑問が湧き出る。が、言われたテマリは納得している様子で返事をする。
「わかってる。昼で良いんだな?」
「あぁ。最悪、十四時までに火影邸に着いてくれりゃあ、それでいいから」
じゃあ行ってくる、と付け足して、後ろ手をふりながらシカマルは玄関から出て行ってしまった。その背に向かって、ヨシノとテマリはそれぞれ送る言葉をかけていく。
「シカマル!来月の誕生日、楽しみにしてなさいね!」
「いってらっしゃい」
まだシカマルに怒っているヨシノは、ぶつぶつと何かを言っているようだったが、テマリは無言でシカマルが見えなくなるまでだろう、見送る。
しばらくしてテマリがヨシノに
「おかあさん、食後にお茶でもどうでしょう?そろそろ、シカダイも降りてくると思うので、顔を見ていってやってください」
家に上がるようにお願いをする。すると、ヨシノは怒りなんて忘れた、という風に返事をする。
「そうね。お言葉に甘えちゃおうかしら。あら、テマリちゃん、帯に刺さってるの簪?素敵ね」
「えぇ。シカマルが今朝くれたんです。この前作った浴衣に似合うだろうからって」
「それを私に言ってくれればいいのにね」
ヨシノがつっかけを脱いで、家に上がり込んだのを目撃してしまったシカダイは、午前中の予定が決まってしまったことにうんざりした。
これで父が子どもの頃、祖母に贈った、お菓子や花束の話などを聞かされることが決定してしまったからだ。
めんどくせーと思うと同時に、自分の計画の失敗を身に感じた。机に伏せた時に寝ていなければ、今ごろはよく冷えた部屋で、朝の分を取り戻す勢いで寝ていたはずだ。
苦々しく思いながら、壁から体を話して一歩進みだそうとすると、次は玄関先から若い男の声が響いた。
「奈良さん、宅配便です」
反射的に、シカダイはもう一度壁に体を隠す。予想していなかった突然のことに、バクバクと音を荒げる心臓の音が耳まで届く。
「ありがとう」
「重いので、玄関に置きますよ」
その男は、ドスッと鈍い音をたてながら玄関に荷物を置き、それからテマリと細かい印鑑のやりとりの話をした後、「まいどありー」と玄関を出て行くと、すぐにテマリの声が聞こえた。
「誰からだ?あぁ、シーか」
シー。
シカダイはその人の名前を見たことがある。しかし、どういった人かは知らない。名前を見たことがあったのは、送られてきたものをたまたまテマリの代わりに受け取ったことがあるからだ。
「プレゼント?それなら、ここで開けちゃう開けちゃいましょうよ。プレゼントは、すぐに開けなきゃ」
ヨシノはそう、テマリにすすめる。
「では、お言葉に甘えて……ん、なんだこれ?」
ガサガサと大量の緩衝材同士がスレる音がした後、コトンコトンコトンと三回、何か物を床に置いたようだった。しかし、覚えがないらしく「うーん」とテマリは唸り声をあげる。しかし、ヨシノはそれらを知っていたようで、驚きの声をあげると、事細かにそれらの説明を始めてくれた。
「あら、このクレイパック、最近テレビで流行りのやつじゃないかしら。土の国で作ってるっていう。あと、先代の水影様がご愛用なさってるって有名な保湿グッズと……なのすちーまー?美顔器かしら?」
びがんき?
聞き慣れない言葉にシカダイの頭から疑問符が飛び出す。しかし、テマリの笑い声ですぐに掻き消される。
「ふははっ!これ全部、昔の同僚からですね」
声は笑っていたが、きっとそれらを帯と同じように愛おしそうに眺めているのだろう。ヨシノが
「いいお友達がいるのね」
穏やかな声をかける。
「そう……ですね。今年も誕生日プレゼントを送らないと」
テマリは嬉しそうに言うと、シーという友人からもらった三つのプレゼントをまた箱に戻し始めた。
祖母の帯、父の浴衣と簪、名前しか知らない人からの美容品たち、それに比べて自分は。
シカダイはギュッと持っていたブーケを握り締めると、自室に戻ってしまう
そしてそのブーケを机の上に適当に投げ出すと、そのまま冷たいシーツへとダイブする。ベッドの端でくちゃくちゃになっていたタオルケットを引き寄せて、頭からすっぽりと覆いかぶさってしまうと、ぎゅうと自分の体を抱きしめる。胃はあいかわらず食べ物を求めていたが、それよりも今は全てを忘れるように眠ってしまいたかった。
考えるなんて、めんどくせー。
思考を放棄すると、シカダイは、遠くでじゃわじゃわと鳴いているセミの声を聞きながら、うつらうつらとし始める。さっき、中途半端に机で眠ってしまったから、まだ眠り足りない。
ぐうと鳴るおなかを押さえつけてると、シカダイはそのまま夢の中へと逃げた。